「使えない奴は切ればいい」と「仲間以外は皆風景」

「使えない奴は切ればいい」は、自称広義のリベラリストの宮台真司が熱望したリベラルな成熟社会において必然的に生じる心性ということができる。

宮台によると、成熟社会では国家社会を論じるような連中は時代錯誤のバカであり、関心の範囲を仲間集団にまで縮小させて日常をまったりと生きることが適応的な生き方になる。「仲間以外は皆風景」であり、コミュニケーション力が低い「異物」は仲間集団から排除される。

自由化→自己決定→自己責任なので、救済を求める意識も、脱落した人を救済しようとする意識も薄くなる。

自由化すると、人がばらけてますから、自分で友だちをつくる力がないと永久に孤立する。現に、自由化を進めた単位制高校などを見ると、結局、友だちをつくれなかったヤツは脱落していくんですね。ものの見事に。「だから、自由化は日本には向かないんだ」という教員もいるんですが、それこそとんだ勘違い。高校どころか、幼少期から自分で自分のことを決める訓練こそが必要なんですね。
自己決定のシステムにすると、何かが起こると、自分が招いたことなんだという態度が養成される。
たとえば、山一証券がつぶれてしまいましたけど、社長が泣いているんですね(笑)。子どもは「なに、この人は」と嘲笑している。

このような宮台が理想とした心性が「使えない奴は切ればいい」につながることは明らかである。宮台自身もテレクラで鍛えた自分の対女コミュ力を誇りながらコミュ力が低い男を嘲笑し、「排除されて当然」的な発言を繰り返していたが、それがリベラルの本音である。

女の社会進出も排除の論理の浸透を促進している。女は男に比べて「無能な男」の存在を嫌うため、社会が女の論理で動かされるようになるほど、無能認定された男は「切ればいい」とされてしまう。人を簡単に切れるようになると、その刃は女にも向けられるようになる。

男主体のサークルに女が加入するとサークルクラッシュが起こりやすいが、女の社会進出も「社会」という巨大なサークルをクラッシュさせる力として作用している。

「使えない奴は切ればいい」は日本人に限らず、リベラリズムに汚染された先進国に共通の風潮である。

今日、知識人階級において非常に強く感じる変化は、彼らがどんどん内向的になってしまっているということです。社会の上層部は、どちらかというと世界に開かれたメンタリティを持つ人々の集団であると認識されていますが、現在は全くそうではなく、これまでにないほど閉じてしまっています。集団レベルでは完全に愚かになってしまったのです。
ナルシシズムというのは個人主義の一つの段階と見ることができます。それは枠組みをなくした個人主義です。このようなナルシシストな個人は、「何も気づかない」ということが問題です。個人的な幸福の追求はするのですが、集団に属していることを認識できません。そして集団意識があった頃の個人に比べて、どうしようもないほど卑小になっていることにも気づいていないのです。
フランス革命から40年後、アーノルドは、自由が至高の価値だという思想は「政治的英知の名において、人間の利己主義に迎合した、もっとも欺瞞に満ちた主張の一つ」だと喝破しました。
先進工業国の社会は、後にイギリス首相になったディズレーリが小説家時代に描写した19世紀はじめのイギリスの状況に逆戻りしているように思えます。「何の交わりも何の共感もなく、まるで別々の惑星の住人みたいにお互いの習慣、考え、感情について無関心な」二つの国の国民が並存しているような社会になってしまいます。そして、市場原理がもたらす、所得の一次分配における格差が広がっている社会では、それを是正できる福祉国家の再分配メカニズムの基盤も揺らいできます。そういうメカニズムが効率的に働くのに必要となる、社会的連帯の意識、社会がある意味で同質的な国民の共同体であるという意識が失われていくからです。

宮台的に「社会的連帯の意識」「同質的な国民の共同体であるという意識」を否定した社会では、人々が「何の交わりも何の共感もなく、まるで別々の惑星の住人みたいにお互いの習慣、考え、感情について無関心」になるので(仲間以外は皆風景)、簡単に他人を切るようになるわけである。リベラルが重視する選ぶ自由、切る自由とは、選ばれない自由、切られる自由のことでもある。

私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。

ちなみに、宮台が師と仰ぐ小室直樹も、「使えない奴は切ればいい」に通じる思想である市場原理主義・株主至上主義の筋金入りの主義者であった。

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