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リベラルが狂暴化した理由

寺圭の記事には「自己矛盾」とあるが実はそうではない。「攻撃や排除」はリベラルにとっては正しい行動である。

政治的・道徳的価値観を異にする者の言論・表現活動に対して「政治的ただしさ」を背景にした攻撃的で排他的な言動をとっていることなど、まさしく現代のリベラリストや人文学者たちが陥っている自己矛盾を、イシグロ氏は端的に指摘している。
彼らは、自分たちの世界観や価値体系にリベラル以外の声を反映するどころか、リベラル以外の価値観に基づく表現や存在そのものを、現在のみならず過去に遡ってまで抹殺しようとしている。
自分たちの独自裁量でもって「加害者」「差別者」「抑圧者」などと認定した者であれば、その対象に対する攻撃や排除は、自由の侵害や差別や疎外にあたらず、一切が正当化されるというのが彼らの主張である。

なぜならば、アメリカで発展した現代のリベラリズムはキリスト教の代用宗教の一つだからである。リベラル民主主義(liberal democracy)は第二次世界大戦では全体主義と、東西冷戦では共産主義と対決したために、その本質が二つの敵とは真逆のいわゆる「リベラル」なものだと思われているがそうではない。歯止めになっていた敵が消えたことでキリスト教的な地が出てきたのである。

現代のリベラルの神聖不可侵の教義"Equity, Diversity and Inclusion"に異を唱える人々は「悪魔の手先」なので、「その対象に対する攻撃や排除は、自由の侵害や差別や疎外にあたらず、一切が正当化される」ことになる。世界を浄化するために神の名の下に異端や異教徒を殺戮した十字軍や魔女狩りの論理である。

神だけでなく悪魔もまた実在し、人間世界に悪い影響を与えつづけている。キリスト教に特に顕著なこの信念はデモノロジーと呼ばれる。
デモノロジーが欧米人の心のなかに牢固として巣食っている以上、デモノロジーを知らなければ欧米人の精神も欧米の歴史も不可解なままである。十字軍、魔女狩り、中南米の原住民の虐殺といったキリスト教史のなかの血なまぐさい出来事は、いずれもデモノロジーをもとにして惹き起こされた。西欧の歴史は、神や悪魔の名の下に無実の人々を数多く殺戮してきた歴史でもある。
20世紀にキリスト教の力が弱まると、ヨーロッパにはその代用宗教とも言うべき全体主義的イデオロギーが広まった。ファシズムとコミュニズムである。両者がそれぞれユダヤ人とブルジョワジーを悪魔のように敵視していたことに思いを馳せると、第2章で詳述するように、両者はじつはヨーロッパに固有のデモノロジーの新種であったと考えざるをえない。だが、この点は意外と知られていない。竹山道雄がすでに指摘しているが、ナチズムにとってユダヤ人は人間の皮を着た悪魔の手先だった。したがってユダヤ人を滅ぼすことは、白をしてますます白たらしめることであり、ヒューマニズムに反するどころか、むしろヒューマニズムに仕えることと考えられたのである。

リベラルが変質した決定的な転換点はアメリカの公民権運動にある。多民族化したローマ帝国が「民族性をまったく取りはらった、まとまりある文化」を必要としたように、アメリカは黒人を包摂するために、人種や民族の差異を否定するイデオロギーを必要としたわけである。

苦難の中でも大きかったのが、多くの民族がクレイジー・キルトのようにひしめき合っていたために起こる文化的混沌と燃えあがる憎悪だった。
このような帝国でキリスト教が再活性化運動になれたのは、民族性をまったく取りはらった、まとまりある文化を擁していた点が大きいとわたしは思う。民族の絆を捨てなくても誰もが迎えられた。だがまさにこの理由で、キリスト教徒のあいだに新しくより普遍的で、コスモポリタン的と呼べる規範や習慣が現れるにつれて、民族性はしだいに退いていった。

それまでは黒人の排除によって成り立っていた「白人の民族宗教」としてのリベラリズムが、黒人を包摂する「世界宗教」へとアップグレードされ、「いまだ消えぬ『原罪』」を贖うために全世界をリベラル化する熱狂的カルト運動へと発展した。西欧諸国も、黒人→非ヨーロッパ系移民、奴隷制度→植民地支配と置き換えるだけなので、スムーズにリベラリズムが浸透した。

「人種間の平等」がリベラルの”宗教“であるという考えを、私は直接的にはハーバード・ロースクールの憲法の授業で、ノア・フェルドマン教授に習った。
「そう、我々はいまだ消えぬ『原罪』を抱えている。道半ばに倒れた『キリスト』の意志を継いで『白人と黒人の平等』という教義を世に広めようと努力し続けている。信仰にも似た熱心さと従順さで。この『人種間の平等』が我々リベラルの心の拠り所だ。この教えをリベラルの『信仰』としないで、他の何が信仰の名に値するだろう」
この教義は後に「すべての人間の平等」へと拡大した。フェミニストはそこに「男女の平等」を入れ込み、LGBTは「セクシャリティの平等」を含めることを主張したからだ。

一方で、旧共産圏の東欧諸国がリベラリズムに抵抗していることが、この見方の正しさを補強している。

欧州連合加盟国ではブルガリア、ハンガリー、チェコ、ラトビア、リトアニア、スロバキアが同条約を批准していない。また、ポーランド政府はLGBTコミュニティが社会全体にジェンダーに関する考え方を押し付けようとしたことを理由に同条約から脱退しようとした経緯がある。

👇ではスロバキアの元内務大臣Vladimír Palkoが、リベラリズムは共産主義と同根の、人類学的革命を目指すネオマルクス主義だと喝破している。事実、「1968年革命」の流れを汲む現代リベラリズムには新左翼のイデオロギーが注入されている。共産主義を実体験してきた人々には、リベラリズムが共産主義の同類の危険思想であることがよく見えるのである。

Dieses westliche kommunistische Denken ist ein anderer Zweig des Marx’schen Kommunismus in einem weiteren Sinn. Persönlich ziehe ich die Begriffe „Neomarximus“ und „anthropologische Revolution“ vor. Der Schwerpunkt liegt dabei nicht bei der ökonomischen Transformation, sondern bei der kulturellen. Insbesondere geht es darum, das Denken der Leute über die menschliche Familie total zu verändern.
Unterschiedliche Trends erhöhen gegenwärtig die Spannungen zwischen den Staaten mit einer kommunistischen Vergangenheit im Osten der EU und den „alten“ EU-Mitgliedstaaten. Die Grenze zwischen diesen ist bekanntlich als „Eiserner Vorhang“ bezeichnet worden.

科学がキリスト教を退潮させたことからも推測できるが、現代のリベラルにとっての厄介者は科学である。リベラルは「すべての人間の平等」を「すべての人には(偶然のばらつき以外の)差異はない」と解釈した上で、「性差は存在しない/性は自己決定するもので無数にある」「人種差は存在しない/そもそも人種は存在しない」などと荒唐無稽な主張をするようになっている。この無理を通すために、最近ではリベラルにとっては不都合な科学論文を撤回させたり、研究者を学界から追放する運動が活発化している。ルイセンコのようなイデオロギーによる科学の支配である。

Palkoも指摘しているが、人類学的革命を企むカルト=リベラルの最重要破壊目標は「男女一対と子供から成る家族」であり、日本では夫婦別姓と同性婚が突破口と位置付けられている。リベラルの教義では家族は女を奴隷化する諸悪の根源なので、家族の解体には奴隷解放と同様の大義がある(同様の思想は初期のソ連にも存在した)。

ここまで来ると一般人はとてもついてこれないかもしれないが、インテリのリベラルは「日本シャンバラ化」を目指したオウムと同じで本気だということを甘く見てはならない。前例も幾つもある。

少なくともプラトンの『国家』以来、完全無欠な社会を築くという概念は西洋人の意識のなかにあり続けている。左派は存在する限りずっと誰もが仲良くて、協力しあい、自由で平和に生きていける社会を追求してきたのだ。
二〇世紀に入り、人間は完全であるという夢は、スターリンのソ連、文化大革命下の中国、ポル・ポト政権下のカンボジアで大変な悪夢と化した。

寺圭が論じているカズオ・イシグロについては明日の記事で。

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