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租税貨幣論は不要

MMTの骨子の租税貨幣論(Taxes drive money)について批判的に検証する。

「現代貨幣」の大部分は、金や外貨によって裏づけられておらず、さらに、その利用を命じる支払手段制定法がなくても人々に受け入れられる。そうだとすれば、貨幣はいったいなぜ受け入れられるのだろうか? 謎は深まるばかりだ。教科書に載っている典型的な答えは、「あなたが国家通貨を受け取るのは、他人がそれを受け取ることが分かっているからだ」というものである。要するに、受け取られるから受け取られるのだ。典型的な説明は、このように無限後退に陥っている。
少なくとも私自身は、貨幣を裏づける唯一のものが「間抜けをだまして渡せると思うから、私はドル紙幣を受け取っている」といった「間抜け比べ」もしくは「ババ抜き」貨幣理論であるなどとは、恥ずかしくて自分の教科書には書けないし、そんなもので疑り深い学生を説得することもはばかられる。

租税貨幣論とは、この疑問に対する回答のことである。

結局のところ、政府の通貨が需要され、それゆえ財・サービスの購入や民間の債務の返済にも使えるのは、納税義務を負う者なら誰もがその(租税)債務を消去するのに使えるからである。政府にとって、通貨を民間の支払いに使い、貯金箱に貯めるように強制することは簡単ではないが、自らが課す納税義務を果たすために通貨を使用することは強制できる。
従って、政府の通貨の受取りを確実にするためには、貴金属(あるいは外貨)の準備も支払手段制定法も必要ない。必要なのは、政府の通貨で支払われる租税債務を課すことだけである。カーテンの裏側にあるのは、租税債務(または、その他の義務的支払い)なのだ。

レイの(おそらく意図的な)ミスリードに引っかかってはいけないのは、「現代貨幣」は貴金属には裏付けられなくなったものの、その代わりに無リスク・低リスクの金融資産という「価値のあるもの」に裏付けられていることである。👇は日本銀行マーケット・レビュー2002-J-11「日本銀行の適格担保制度と最近の担保受入状況」より。

通貨が通貨として機能するためには、中央銀行の資産の健全性に対する国民の信認確保が不可欠である。日本銀行が金融機関に資金供給する際に受入れる担保資産についてもその健全性の確保が重要となる。
このため、日本銀行では、適格担保とする金融資産の基準として、「信用度」と「市場性」を重視している。金融資産の元利金の支払いが確実か(信用度)、市場での売却による資金化が容易か(市場性)の2点を中心に吟味して、適格担保資産を選定している。
前述の基本的な考え方の下で、日本銀行は、国債、政府短期証券、政府保証付債券、地方債、交付税及び譲与税配付金特別会計に対する証書貸付債権(以下、交付税特会向け証書貸付債権)、預金保険機構に対する政府保証付証書貸付債権(以下、預金保険機構向け証書貸付債権)、財投機関等債券、外国政府債券、国際金融機関債券といった公的機関等の債務と、社債、資産担保債券(ABS)、手形、CP、資産担保コマーシャル・ペーパー(ABCP)、企業向け証書貸付債権といった企業等の債務を、適格担保としている。

👇はECBの説明。「ユーロは主権国家の通貨ではないので参考にならない」とはならないので念のため。

MMTは信用貨幣が銀行の信用創造によって無から湧き出す(out of thin air)ことを強調するが、この「無」とは貴金属等の「形のある」資産の裏付けが無いという意味であり、有価証券や知的財産など「形のない」資産も含めれば「無」ではない。担保になり得る「価値のあるもの」が固定担保から浮動担保に拡張されたようなものと言える。当たり前のことだが、民間銀行も中央銀行も「価値のあるもの」にしか信用供与しない。特に中央銀行には通貨価値の維持の使命があるので、原則として市場で価値が認められたものだけを裏付け資産にする。

When banks create money, they do so not out of thin air, they create money out of assets – and assets are far from nothing.
Has money appeared magically out of thin air? No. Pontus has created an IOU that is treated like money by third parties out of Lukas’ repayment capacity, which is equal to a stream of repayments in the future. A stream of repayments is the same as a stream of dividends, so the money Pontus created was out of an asset.

現代のドル紙幣はかつての金の代わりに米国債(財務省証券)やMBSなどの有価証券によって裏付けられている。一般人は裏付け資産のことを知らなくても、購買力が安定していれば(インフレ率が許容範囲であれば)貨幣に価値があることを実感できるので、無限後退には陥らない。つまりは「間抜け比べ」もしくは「ババ抜き」貨幣理論にはならない。従って、政府の通貨が用いられるために「政府が租税債務を課す」ことは必要ではない。

もっとも、これは租税債務を課すなどの政府の関与が無意味ということではない。貨幣の三大機能は①交換の媒介、②価値の保存、③価値の尺度だが、政府は

③通貨単位を定める
②貨幣の購買力を維持する(←放漫財政を防ぐ)
①最大のユーザーになる(→ネットワーク外部性)

ことで、人々が通貨を受け入れる条件を整えることができる。

特に重要なのが②である。レイも(渋々)認めるように、途上国では租税貨幣論が十分に成り立っていないが、その主因は②にある。

しかし、民間取引(主権国家が関与しない支払い)において外貨が好まれるかもしれない途上国では、状況が大きく異なる可能性がある。確かに人々は租税債務を履行するのに必要な自国通貨を欲しがるが、租税債務そのものが節税や脱税によって限定されてしまう可能性がある。

財政赤字累増の結果として、財・サービスの生産が追い付かないほど貨幣流通量が増加すれば、②の機能が壊れて「ババ抜き」と価値保存手段としての実物や外貨(や最近では暗号通貨)への逃避が進行する。最終的に自国通貨の廃止とdollarizationに至った2000年代のジンバブエがその好例である。

https://note.com/prof_nemuro/n/nec06be29c43c#QmUkz

結局のところ、人々が貨幣を受け取るのは貨幣が価値のあるものに裏付けられているからであり、そのためには主な裏付け資産の国債を国内生産力を超えて発行しない財政規律が必要になるわけだが、これはMMTの「国内生産力の限界に達してインフレが昂進するまでは財政赤字を拡大できる」との主張と同じである。この結論に達するためにMMTは不要ということであり、同時に租税貨幣論も不要なのである。

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聞く耳を持たないのが信者の特徴。

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