家事する妻は奴隷

この記事(?)には夫婦を協力関係ではなく支配ー被支配の関係(家父長制)と捉えるフェミニズムの歪んだ世界観が表れている。

一瞬、言葉にできない違和感を覚え、指が止まった。
最大の違和感は、食卓に座るスーツ姿の夫の脇で、立ったまま両手を前に組んで控える妻の姿。

この(⇧)ように感じるのは、フェミニズムでは結婚は奴隷制、夫は主人、妻は奴隷とされているからである。この筆者には岸田夫妻の写真が「白人の主人が食事をする傍らに黒人奴隷が控えている」ように見えるわけである。

女性運動の初期、『サイコロジカル・トゥデイ』誌の記事は"ニガーとしての女性"と呼びかけ、フェミニズム活動家(私もその中に含まれる)に素早く女性に対する抑圧を黒人に対する抑圧と相応させようとした。男性は抑圧者であり、「主人」、「奴隷所有者」であると述べられた。
フェミニストたちはしばしば結婚を奴隷制と比較する――女性を奴隷として。

家事を「無償労働を強いられている」と解釈するのも奴隷制から来る。

男女格差の大きさを示すジェンダーギャップ指数(2019年)は、日本は世界153カ国のうち121位。女性が家庭での無償労働を強いられている状況も、女性政治家の少なさも、日本の大きな課題だ。

人類に普遍的に見られる結婚制度は、男女が子育てするために分業・協力関係を築くことだが、現代フェミニズムは「産まないエリート女」「エリート男と同じ知的労働をしたいエリート女」の思想なので、家事が「強いられた無償労働=奴隷労働」として理解される。

妻の奴隷労働からの解放は「他者に有償で外注」につながる。ジェンダーギャップ指数ランキング上位国の実態はハフポストが報じた通りで、家事をやりたくない強い立場の女が弱い立場の女を「賃金奴隷」としてこき使っている

台湾、香港、シンガポールの現状を見てみよう。
「外国人家事労働者」が廉価で利用できるので、仕事と家庭の両立はしやすい環境にある。
ちなみに、私が1年住んでいた香港では、外国人ホームヘルパー(いわゆる家政婦)を、住み込みで月5万円程度で雇うことができる。

「妻を奴隷の境遇から解放するために家事を市場労働にする」ことは家庭内に資本の論理を持ち込むことで家族を解体に向かわせる。フェミニストは家族=奴隷制を解体するために資本の論理(≒ネオリベラリズム)と手を組んでいる。

資本は、無家族を理想とします。真っ平らな平面に置かれたバラバラの個人のほうが管理がしやすいからです。今、家族のなかに外部の論理が急速に浸透し始めています。規制緩和という名目でも、家は、しだいに解体の方向へ仕向けられているように思えます。家がなくなれば、人間は散乱した存在となります。

フェミニストの「奴隷解放」とは、「エリート女性労働者と特権的な立場に立った専業主婦」が新たな主人になり、「多数派の周辺的な女子労働者」を賃金奴隷にすることだった。

エリート女性労働者と、多数派の周辺的な女子労働者、そしてそのどちらにも属さない無業の主婦(「働かなくてすむ」ことで特権的な立場に立った専業主婦)に、女性は三極分解するだろう。そしてその女性の多様化を、「選択の自由」「個性化」イデオロギーが、あたかもそれが女性自身の選択であったかのように、おおいかくすだろう。

これ(⇩)が奴隷制からの解放であり、「選択の自由」「個性化」である。

賃金が上がらないといっても、外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きて行けるし、幸せでしょう?

補足

フェミニストは所得が男>女であることを女が抑圧された弱者である証拠とするが、本当の「力」は所得ではなく男⇄女の再分配後の可処分所得あるいは消費額で見なければならない。社会全体では男から女に多額の所得が移転して女の消費を増やしていることは明らかなので、女が弱者であるとは言えない。

(男は女に金を使うことに消費の効用を感じてしまう。)

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