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トーマス・ロックリー「弥助の驚くべき物語は、史実を越えてフィクションの世界でより一層輝いている」

動画で紹介されている『つなぐ世界史 2 近世』は「授業などでも補助教材として使いやすいように」というコンセプトの歴史教育書(㊟教科書ではない)で、第1章「16世紀の世界」の一部をトーマス・ロックリーが執筆している。

仕掛け人が客観を装って書いていたと分かって読むと、じわじわくるものがある。

日本人に大人気の戦国の英雄織田信長であるが、実のところ最近まで海外ではあまり知られていなかった。ところが近年、その状況に変化が生じている。それは信長本人のためではなく、彼の人生の最後の年を共に駆け抜けた彼の従者の存在が世界史上、興味深い存在として注目され始めたことによる。彼の従者の名は日本の史料によると「弥助」、「サムライ」としては極めて特異な存在であった。なぜなら彼はアフリカ人だったからである。

p.30

現代の弥助
21世紀に入ると、アメリカなどで始まったヒーローの多様性を求めるムーブメントの中で、弥助はヒーロー的存在として生まれ変わった。フィクションの入り混じった伝記、小説、劇、美術作品、漫画、映画、ネットフリックスのアニメシリーズなどを舞台に主役として描かれるようになった。アフリカ生まれの一風変わった「サムライ」の持つ意味は、受け取り手によって異なるであろう。しかし、彼の生涯にこれほどまでに人々が魅了されるのは、その生き様から刺激を受け、おそらく「奴隷」の境遇から異国で高い地位を得て、主人の最期まで共に戦ったという波乱万丈の人生に希望を感じるからではないだろうか。言うなれば、弥助の姿に世界中の人々が生きる力をもらっているようにも思われる。
「アフリカ人のサムライ」弥助の驚くべき物語は、史実を越えてフィクションの世界でより一層輝いている。弥助の生涯に関する資料は今後も見つかる可能性があり、多様な文化の中で彼の姿はトランスレーションされ続けるだろう。弥助の話はまだまだ始まったばかりなのだ。彼の物語は書き換えられるかもしれない。

p.35

ロックリーが日本史の捏造、revisionに手を染めた動機だが、最初は「ヒーローの多様性を求めるムーブメント」に参加することで「世界中の人々に生きる力・勇気を与えられるから」というある意味では純粋なものだったのではないかと思われる。もちろん、動機は行為を正当化しないが。

戦国時代に織田信長に仕えたアフリカ人の侍「弥助」に関する著作で、「難民の人にも読んでほしい。きっと勇気をもらえるから」と言ってくださいました。

https://www.refugee.or.jp/report/activity/2020/02/post_501/

弥助の物語に勇気づけられた多くの人々からメッセージが寄せられたというお話には、故郷を離れ移動する人々への時代を越えた共感があるのではと思いました。

同上

これ👇は鋭い洞察で同意する。

ちなみに、同書の「序」には👇とあるが、これはロックリーにも適用しなければならないだろう。

もちろん研究する前に、この史料は本当に当時のものなのか吟味もしている。これを「史料批判」と言っている。私たちは使う史料がフェイク(例えば偽文書)でないことを確定する。偽文書で構築した歴史は偽史になってしまうからだ。
ただし、なぜ偽文書が作成されたのか、その背景を研究することは重要だ。つまり、なぜ偽史がつくられようとしたのか、つくられたのかを研究することは、歴史学の研究として成り立つ。区別したいところだ。

p.7

補足

👇はロックリー説だが、

信長は弥助を大いに気に入って、しばしばそばに召していたという。この時代、武士とそれ以外の身分の垣根は曖昧であり、本当に弥助が「サムライ」となったのかについては議論があるものの、少なくともその身一代においては、彼は間違いなく信長の家臣に取り立てられたと考えられている。

p.32

During this period, the definition of samurai was ambiguous, but historians think that this would contemporaneously have been seen as the bestowing of warrior or “samurai” rank. This is where the claim that Yasuke was a samurai originates.

https://www.britannica.com/biography/Yasuke

信長が弥助を気に入ったのは「日本語での会話が可能で、少しの芸も出来たから」というイエズス会の記録から推測すると、西洋におけるミンストレル兼ポーターのような位置付けだったのではないか(ボブ・サップのような肉体それ自体が一種の「芸」と言える)。日本側に弥助の地位や任務の記録がないことや、光秀が「イエズス会に返せ」と言ったことからは、侍になる条件の「家臣団の組織体系の一員」とは認識されていなかったというのが妥当なところではないか。

ロックリーは弥助は甲州征伐の時点で明智光秀、高山右近、津田信澄に近い地位にまで出世していたとしているが、信長と物理的に近い距離にいたことは、家臣団の中での地位が高かったことを意味しない。

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