改革保守のリベラル仕草

愛知県の大村知事のリコールを仕掛けた勢力は右派・保守と見られているようだが、この「被害者仕草」はその本質が左派・リベラルであることを物語っている。

被害者の立場を強調することで敵に対して優位に立とうとするのは、リベラル化が著しい近年の西洋に広がるvictimhood cultureそのものである。

リコールもリベラルのcancel cultureそのものである。

この仕掛け人たちは日本の左派からは敵視されているが、これは既成左翼が新左翼に敵視されたようなもので、本質が既存の社会システムの解体を志向する革新のリベラルである点では同じ穴の狢である。革新系の一派が対外強硬路線(のポーズ)で保守的な人々を取り込んだのが新保守だが、その本質が保守ではなく超リベラルであることは、安倍首相(当時)の「あたかもリセットボタンを押したように、日本を一変させる」の言葉に表れている。

日本には西洋のような宗教右派が(ほぼ)存在しないため、反日とアイデンティティ・ポリティクスの左派リベラルと、右派と誤認される新保守≒ウルトラリベラルの内ゲバの構図になっている。

仕掛け人たちは公的部門の縮小や公務員給与の引き下げに積極的だが、それはマルクス=レーニンに通じている。一億総中流の修正資本主義から「貧しさをエンジョイ」の新自由主義に至る架け橋となるのである。

国家権力の機能の遂行そのものを人民の間で広く分担するようになればなるほど、国家権力の必要性は小さくなる。
この点で特に注目に値するのは、マルクスが強調するコミューンの一連の措置である。コミューンは、議員報酬や、官僚に対する金銭的特権をいっさい廃止し、国のあらゆる公職者の給与を「労働者の賃金」と同じ水準に引き下げた。
公職者をもれなく公選で選ぶこと、例外なくすべての公職者をいつでも解任できるようにすること、公職者の俸給を通常の「労働者の賃金」並みに引き下げること。こうした簡単な、「しごく当然の」民主主義的な措置は、労働者と大部分の農民の利益を完全に合致させ、同時に、資本主義から社会主義に至る架け橋となるのである。

コミューンは1871年のパリ・コミューンのこと。

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