男女平等が不可能なのは男女の肉体の価値が異なるから

リベラリズムに毒されたインテリが夢想する「男女平等社会」が実現不可能なのは、男と女の肉体の価値が異なるためである。

人間は有性生殖する哺乳類の一種なので、女(雌)は子を産めるが男(雄)は産めないという決定的な違いがあり、この違いがその他の男女差の根本にある。肉体の価値もその一つである。

ある人が多額の借金を「体で返す」ことになったと聞いたとする。借り手が女であれば性風俗など性的サービスが思い浮かぶだろう。

一方、男であれば性的サービスではなく、マグロ漁船のような過酷な仕事、危険な仕事が思い浮かぶだろう。

このことは、女は性(セックス)の提供、男は重労働に耐えることが肉体の価値であることを意味する。逆にイメージする人はまずいないだろう。

人間の究極の目標が「繁殖に成功すること」だとすれば、子供を産める女は体そのものに価値があるが、産めない男には価値が無い。男が女に性を提供してもらう(→自分の子供を産んでもらう)ためには、女よりも重労働に耐えて剰余価値を貢ぐ必要がある。男の価値とは「女よりも働いて多く稼ぐ」ことなのである。

繁殖に成功することは、人間を含むあらゆる生物の究極の目標である。人間は進化の歴史の中でそのようにデザインされているのだ。それが命というものの意味だ。

伝統社会では、性の価値の女>男と労働の価値の男>女をバランスさせる→マッチング成立→繁殖に成功→人口再生産→社会の存続、となっていた。女の性と男の労働の交換によって人間社会は回ってきたのである。

ところが、金の亡者のフェミニストとネオリベラルの思想が社会に蔓延したために、労働の価値を女=男にしなければならなくなり、政策的に女のempowermentと男のdisempowermentが促進された。

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その結果が、性と労働の価値の合計が女>男になる→マッチングが成立しにくくなる→繁殖の失敗の増加(少子化)である。仕事を奪われて生きづらさを感じる男と、男並みに働くことを強要されて疲弊する女も増加している。

これ(⇩)は40年近く前の論文だが、現代社会を予見していたようである。

能力のない女よりかえって能力のない男のほうがもっとひどい劣等感にさいなまれているというほうが現実ではないでしょうか。男女平等の社会、つまり、男にも同じような機会を与えるかわりに、同じような仕事も課すような社会は、かえって女にとって苛酷な社会のように思われてなりません。与えられた能力を十分に発揮しあうことが平等の真の意味だと思われるからです。

男女平等社会とは、稼得能力や性的魅力の高い少数の強者が得をする一方で、多数の凡人や弱者にとっては厳しい二極化社会なのである(だからエリートが推進しているわけだが)。

本来、全く違う男と女を同じだとして扱うことが、格差拡大や少子化などの歪みを生み出していることに気付かなければならない。

近頃は男女平等、平等って言いますけど、女は昔っから特権階級ですよ。神様が子供を産むということを女の人に与えているわけじゃないですか。
男女雇用機会均等法ができて以降、家庭でも会社でも、女性と男性が同じような役割を果たすべきという考えが当たり前になりました。でも私はこれには断固反対です。男性と女性は本来、全く違うんです。同じようにしたら歪みが出てくるんは当たり前です。

男女平等=equalityとは、女が男と同等の体力や働き方を求められることである。普通の女たちを下女として男並みに働かせることがフェミニスト≒エリート女の真意なのである。

左が二流、右が一流(⇩)

十分に発達したフェミニズムはネオリベラリズムと見分けがつかない。

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