東京大学の「女子2割の壁」は無問題

日本侵略を目論む西洋リベラルの手先の朝日新聞が、東京大学が一度も「女子2割の壁」を超えていないことを問題であるかのように報じているが、何の問題もない。

既にこの記事(⇩)で検証済みだが、改めて簡単に整理する。

これら(⇩)で東大に女が少ないことはほぼ説明がつく。何も問題はない。

❶男は女よりも分散が大きいので、分布の両端になるほど男が多くなる。

「知能の分布も男女では違います。知能は普通、真ん中が多くて両端が少ない、釣り鐘型の分布です。女のほうが真ん中に多く集まり、男は釣り鐘の形が幅広くなっています。ひじょうに慎重に言わなければいけませんが、分布の形から言うと、頭の良い人は男に多い、ということになります。こういう研究を、性差を認めたくない人たちはとても批判してきました」
――この分布が正しければ、頭の悪い人も男に多い、ということですね。
「その通りです。言い方次第で男性からも女性からも批判されてしまいます」

❷東大入試は文科・理科共に数学が出題されるが、数学は難度が上がるほど男が優勢になる普遍的傾向がある。

❸女はSTEM分野(医学・生物学系を除く)を選好しない普遍的傾向があるが、東大は工学部と理学部で40%弱を占めるので、必然的に全体の女の割合が引き下げられる。

❹女の高学力者は医学部志望が多いが、医学部進学の目的は医師免許取得なので、他大学の医学部に進学できれば事足りる。

❺女は男よりも上昇志向が乏しいので、「東京大学卒」のネームバリューにそれほど拘らない。

東大が「女子2割の壁」を超えていないのではなく、女が東大の「2割の壁」を超えていないだけである。

東大の2割の壁が問題なら、東京工業大学の学士課程学生に占める女の割合が12%であることはそれ以上の問題のはずだが、こちらは全く騒がれないことが、この問題が政治的なものであることを示している。

これ(⇩)も被害妄想で、東大女子OKのサークルに入ったり、自分たちで「東大男子お断り」のインカレサークルを作ればよいだけである。他大女子と交流したい東大男子を妨害する必要はない。

最近では、東大男子と他大女子が入る「東大女子お断り」のインカレサークルが、学内外から批判を浴びた。
自分の大学なのに、その大学の女子学生だからという理由で排除されてしまう。そうした疎外感が「じわじわと効いてくる」。

何の根拠もない新左翼のプロパガンダ(⇩)。「大学に入る時点で、すでに隠れた性差別が始まっています」というのであれば証明しなければならない。日本社会にはあからさまな女に不利な性差別は横行していない。

昨年の入学式の祝辞で、社会学者の上野千鶴子・東大名誉教授は、「2割の壁」や、女性教授が1割に満たないこと、歴代総長に女性がいないことなどを挙げ、長年、男性優位な構図が変わっていないことを批判した。「偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点で、すでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながら例外ではありません」

フェミニズムの手法はカルトと同じで、いきなり根拠のない決め付けをして相手(男)に罪の意識を植え付け、譲歩と服従を迫る。「嘘も100回言えば真実になる」もフェミニストがよく使う手である。

これ(⇩)は1990年代の京都大学のエピソードだが、フェミニズムに毒されると高学力者も頭がおかしくなることがよく分かる。フェミニズムは、生物学的な男女差に起因する社会的な男女差を、家父長制による女の抑圧・性差別によるものだとして憎悪を掻き立てるルサンチマンの思想だからである。

京都大学では、1994年から、「偏見・差別・人権」なるテーマの全学共通講義が開かれている。各学部から代表が一人ずつ出て、このテーマに関する講義をする。私は数年前にこの節で述べるような内容や労働における性の分業について講義し、試験のかわりに授業についての感想をレポートにまとめるよう学生に課した。その内容はまったくがっかりするようなものだった。三分の一くらいの女子学生が私の講義を、男女の違いを強調して、差別を助長するものだと批判したのである。私は違いと差別は別物であると繰り返し述べたはずだが、紋切り型の批判しかなかったのはフェミニズムの教育の影響が非常に大きいからだと思われる。

未だにフェミニズムが公民権運動と同種の普遍的正義の思想であると騙されている人が少なくないようだが、フェミニズムは新左翼運動の流れを汲むカルト的革命思想フェミニストは紅衛兵の同類で、public enemyである。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」などという狂人の妄想がまともなはずがない。

フェミニズムの「主要な敵 main enemy」は男性であることを私は公言してはばからない。男との敵対を避けたい似非フェミニストの女や、女性との対決を避けることでフェミニズムの問題性を無化したい反フェミニストの男だけが「男と女は共通の敵に向かって共闘できる」と無邪気に信じたがる。
男性との対決と彼らの変貌を経ないでは「男女共生」はありえないのに、対決の時代は終わったとする言説は、ただ「男を敵にまわしたくない女」か「女にこびたい男」にだけ支持される。

かつて、キリスト教がヨーロッパ人の世界侵略の尖兵の役割を果たしたように、現代ではフェミニズム、リベラリズム、ポリティカル・コレクトネス、アイデンティティ・ポリティクスがその役割を担っている。

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