ペテン師ロックリーに騙された立花隆と外人達


立花隆の『信長と弥助』書評

経済学者による的外れな「総括」では、ロックリーを擁護するために立花隆を「権威」として持ち出している。

ちなみに炎上以前、この本は立花隆氏が「歴史の見方が変わる」として絶賛したとされる。史実と推測をわからないように混ぜて書いて日本に黒人奴隷制があったと主張する本を、あの立花隆氏が絶賛することはありえないだろう。ロックリー氏の本のイメージは炎上時にネットが作り出したものと考えたほうが良い。

👇が立花隆が絶賛したとされる書評だが、「絶賛」というのは大袈裟で、しかもロックリーのWikipedia編集に引っ掛かっていたことも見て取れる。

『週刊文春』2017年4月13日号「私の読書日記」

おすすめは、ウィキペディアで弥助情報をさっと読んでから読み始め、ちょっと読んだら第三章に飛んで、現代における弥助情報の広がりを幅広くつかむことだ。

立花がロックリーを肯定的に評価した根拠の一つはWikepediaだが、それをロックリーが編集していたことを考察に入れていない時点で、田中の総括は問題外と言える。

「弥助伝説」を信じたい外人達

信長と弥助』第三章「現代に伝わる弥助伝説」からは、主にロックリーが創作した「弥助伝説」とそれを信じる外人達の心理が見て取れる。

弥助は歴史上の人物としては、重要でないとは言わないまでも、あくまでニッチな存在である。しかし、彼の逸話は今日にいたるまで人々の心を魅了しつづけ、日本でも他国でも、崇拝されているとさえ言えそうなほどだ。

p.97

弥助は日本史において全く重要な人物ではないので、日本人の心を魅了し続けることはなく、崇拝されてもいない(弥助を崇拝する日本人がいるとしたら狂人か低能くらいだろう)。

弥助に関する最初の論文をインターネット上に投降したことをきっかけに、私は弥助に魅了された大勢の人々と交流する機会に恵まれた。世界のいたるところで、実に多彩な人々――映画制作チームのメンバー、ブラジル系アメリカ人の漫画家、イギリスやフランスの作家、学者など――が弥助の人生に深い感銘を受けたり、それに触発されて創作活動をしたりしているのだ。この章では、そんな彼らとの交流の結果をまとめてみよう。過去の史実を中心に扱うほかの章とは異なり、弥助に関する現代の手がかりを紹介しながら、十六世紀と十七世紀の史料と合わせて仮説を立て、歴史を検証する。

p.98

ロックリーは自分の創作に「魅了された大勢の人々と交流する」ことで、エコーチェンバー現象的に創作を史実化する活動をエスカレートしていったのだと思われる。

この章への情報提供者たちは、過去三年以内に弥助の話を聞いたばかりか、あるいはうわさでなんとなく耳にしたことがあるだけだったと回答している。また、弥助を知るきっかけは、ウィキペディアかフェイスブックだったというのが一般的だ。

p.103

弥助を知る切っ掛けのウィキペディアとフェイスブックはロックリーの活動場所だった。

以下は五人の情報提供者が「弥助伝説」をどのように受け止めているかについて。

一人目は「非ヨーロッパ人を犠牲者と位置づけるのではなく、彼らが大躍進する成功譚にスポットを当てる活動をしている」白人女性(日本人と結婚して日本で男性が大半を占める職業に就いている)。

この情報提供者にとって、弥助はオルタナティブな歴史を体現している。犠牲者ではなく、英雄となったアフリカ系の男性――それが弥助なのだ。イエズス会がアフリカ人従者たちを軽視した行為は、彼らをその時代の犠牲者として位置付けているが、彼女の眼には、信長の弥助に対する敬意のほうがよほど弥助の価値を正当に示していると映っている。

p.105

二人目はプロの漫画家のアメリカ人男性。

弥助の逸話は心を浮き立たせてくれる贈り物であり、黒人文化の暗黒時代にも、光があったことを教えてくれます。

p.106

三人目は「日本史に大変興味あり、信長とその時代を調べているときに偶然、弥助の存在を知った」英国人作家だが、ロックリー本人ではないかと思われるようなコメントである。「彼についての情報がほんのわずかしかない」のだから詳しく調べようがないのだが。

僕は興味を惹かれて、この男について詳しく調べはじめました。十六世紀の日本にアフリカ人がいたかもしれないなんて、ありえないとしか思えなかったから。どう考えても場違いな弥助という男は、日本の著名な武将の家来になり、僕の知るもっとも興味深い歴史上の人物のひとりになりました。彼についての情報がほんのわずかしかないことも、彼の存在をさらに魅力的にしています。

p.106-107

僕は、世界中の右翼思想を持つ人々がなんと主張しようと、世界は今も昔も見た目よりもずっと小さいんだということを、弥助が証明していると思います。歴史を精査すれば、異邦人として生きた何千人もの弥助のような人々が見つかることでしょう。思いもよらない場所に思いもよらない肌の色、国籍、信条を持つ、さまざまな人種の人々がいたのです。世界が難民危機に瀕しているこの時代に、どの時代にもまったく異なる文化に適応し、その文化の一部となった異邦人が存在していたんだということを、弥助は教えてくれているんだと思います。

p.107-108

👇と読み比べるとロックリーとの類似は明らか。

四人目も同類。

私が強く感じたのは、弥助は母国を出て試練や苦難を乗り越えた男だということです。これは逆境を勝利へと変えた物語で、だからこそ、私たちすべてに関係のある話だと思います。

p.108

三人目と四人目の情報提供者は、どちらも弥助を異文化での困難をものともせず成功した異邦人だと位置づけている。一味ちがう移民のサクセス・ストーリーということだ。弥助の逸話は、グローバル化された相互につながる世界――もはや同質社会は存在せず、民族や部族の境界線と政治的国境がほとんど一致しない世界――が抱える多文化と疎外という現代的問題をどう扱うべきかについての教訓となりうる。

p.108-109

五人目は日本史マニアのフランス人男性だが、弥助が織田家臣団において実質的な意味での「唯一無二の侍」になれるはずがないことも理解していない。

弥助の話の斬新さに魅了されました。彼はその他大勢の侍じゃない。唯一無二の侍です。それに、ものすごく暴力的で不可解な人物として描かれることの多い信長が、こんなにも偏見のない人だったことにも興味を覚えます。なにより、弥助が生きていたという事実を現代の私たちが知っているということが、とてもロマンティックだと思いました。といっても、彼が生きて死んだということ以外にはほとんど何も知らないも同然ですが。

p.110

この話は、変えられないものはないんだということを実証していると思います。多くの人々が、人種差別の犠牲者だから、運がないからなどさまざまな理由で立ち止まっています。弥助は、人は誰しもチャンスをつかめると証明しているんです。

p.111

弥助の物語にすっかり夢中になった彼は、すぐさま懐疑的な上司を説得して、フランスのラジオ局のウェブサイトに記事を載せる許可を取った。その記事は、とりわけアフリカ人読者のあいだで人気を博した。 

p.110

👆にリンクした記事も創作を史実と取り違えたトンデモ内容で、信長は弥助の身体能力と知的能力を高く評価して側近に取り立てたとしているが、状況証拠的には茶器の名物狩りのようなノリ(珍獣/芸人枠採用)で、軍事の指揮命令系統に入っていた可能性はほぼ無い。なお、この白人男性はAssassin's Creed ShadowsについてもLe Mondeに記事を書いている。

この人たちは「弥助英雄伝説」を信じたいから信じているので、史実ではないことを指摘しても「日本の極右レイシスト」の妄言としか受け止めない可能性が高く、非常に厄介な事態になっている。

付録:黒人奴隷の記述

同書112ページにも東アジアにアフリカ黒人奴隷が普及していたと読み取れる記述があった。

歴史の主流はヨーロッパを中心に据えた視点で描かれる傾向があり、世界に技術を広めたのもヨーロッパ人だとされているが、実際には十六世紀までは、技術の普及に大きく貢献したのは中国人だった。十五世紀に中国政府が海上交易の支援を停止するまでそれは続いた。ヨーロッパ人がその役割を引き継ぎ、武器とアフリカ人奴隷以外にもアジアに多くの技術を広めるようになるのは、翌世紀になってかりだった。

p.112
強調は引用者

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