ナイキCMと福澤諭吉とリベラル教

不評のナイキのCMは、"Global Liberal Order"の実現を目指す西洋のリベラルによる日本への文化大革命の輸出である。

西洋リベラルの思想の根底には、キリスト教的な原罪と贖罪の観念がある。アメリカには原住民を殲滅して黒人を奴隷として輸入した罪、西欧には世界中を侵略して植民地支配した罪とユダヤ人迫害の罪がある。

「人種間の平等」がリベラルの”宗教“であるという考えを、私は直接的にはハーバード・ロースクールの憲法の授業で、ノア・フェルドマン教授に習った。
「そう、我々はいまだ消えぬ『原罪』を抱えている。道半ばに倒れた『キリスト』の意志を継いで『白人と黒人の平等』という教義を世に広めようと努力し続けている。信仰にも似た熱心さと従順さで。この『人種間の平等』が我々リベラルの心の拠り所だ。この教えをリベラルの『信仰』としないで、他の何が信仰の名に値するだろう」
この教義は後に「すべての人間の平等」へと拡大した。フェミニストはそこに「男女の平等」を入れ込み、LGBTは「セクシャリティの平等」を含めることを主張したからだ。

その原罪に対する贖罪が、BLMやcancel cultureなどの攻撃的行動となっている。現代における十字軍であり、騎士がsocial justice warriorsである。ハッシュタグの#YouCantStopUsも「敵か味方か」「悪か善か」の善悪二元論そのものである。

十字軍の本質は「贖罪」であり、その目的地は聖地に限定されず(聖地十字軍と非聖地十字軍の同等性)、それは連続性を持つ運動であった。贖罪、より正確に言うとローマ・カトリック教皇の認める贖罪である十字軍は、根本的に宗教・信仰とは不可分のものであった。
ここにあるのは共存の思想ではない。異教徒による「汚染」の「浄化」という排斥の思想である。「聖地」エルサレムの聖性を貫くために、汚染された異教徒を「浄化」しなければならないという想念が、ここに見出される。これが「平和」を求める参加者たちの琴線に触れたのは確かだろう。

以前の広告にも「絶対的な正しさ」を他者に強要する独善的精神が溢れている。

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ナイキのCMは日本人にも人種差別や民族差別の原罪を自覚(woke)させて「リベラル教」の信者にすることを狙ったものだが、成功したとは言い難いのは、日本人にはキリスト教的観念が乏しいことに加えて、アメリカや西欧の原罪に匹敵するほどの罪は犯していないからである。しかも、アメリカの奴隷の子孫の黒人は「アメリカ人(自国民)」だが、在日韓国・朝鮮人は「外国人」と立場が根本的に違うので、罪の意識を抱かせる効果も乏しい。

日本人にも反省・改善すべき点はあるにせよ、西洋のリベラルに指導される筋合いはない。この手法がカルトのマインドコントロールと同じであることにも要注意である。

(⇩一流大学がカルト的リベラルの拠点になる理由)

どんな人が最初に文化の革新を受け入れたかを調べた過去の研究から、それが収入と教育の面で平均を上回るレベルの人だということが明らかになった。
パウロは彼らに新しい世界観、新しい現実の捉え方、事実、新しい神を受け入れるよう呼びかけたのである。
アメリカでカルト運動と見なされる東洋の三つの宗教に少しでも魅力を感じると答える人の割合は、大学に行ったことがある人の方が数倍程度高いことだ。
わたしたちがデータで見る限り、カルト運動は恵まれない層ではなく恵まれた層に信者の基盤がある。

このCMのもう一つの注目点は、反差別を信仰するリベラルが差別主義者になることが暗示されていることである。

福澤諭吉の「門閥制度は親の敵でござる」の門閥を人種、民族、性別等々の属性(アイデンティティ)に拡大したものが現代リベラルの反差別信仰だが、それは自由主義的能力主義を理想とするので、勝者が新たな上流階級(聖職者、貴族、ブルジョワジー)を形成する一方で、多数の一般人は下層階級と位置付けられる。リベラルが平等を追求すると、能力に起因する不平等を正当化するネオリベラルに行き着いてしまうのである。

各人が実学を学ぶ機会を平等にあたえられ、自由競争の結果、社会階層がたえず再分布され得る、一種の自由主義的能力主義の社会を理想とした。

自由競争が社会階層を流動化させるわけではないことは、先進国の格差拡大が証明している。上流階級の子供は多くのチャンスを与えられる上に、上流階級は自分たちが有利になるように競争のルールを決めるからである。

左派政党がアイデンティティ・ポリティクスに傾倒して"natural supporter"の労働者を蔑視・敵視するようになった根本にも、リベラルの自由主義的能力主義がある。「身分制度」に守られた男の労働者は被差別民の敵だからである。

Today, Labour has become a middle-class party with a militantly cosmopolitan world view.
Disavowing its roots, it is a movement almost exclusively for the managerial and professional classes, graduates, social activists and urban liberals. And many inside the party have started to look upon old-fashioned values with contempt.
There is no place on the modern Left for the small ‘c’ conservatism of the traditional working class, with its love of community and nation and its desire for social solidarity and belonging. Instead, this shiny, progressive, bourgeois Labour elevates things such as personal autonomy, open borders and identity politics over all that ‘faith, family and flag’ nonsense.

身分社会でも、スポーツと芸能は下層民でも実力で成り上がれる分野だったが、ナイキがスポーツ品メーカーであることや、ハリウッドがリベラルの巣窟であることはそのことと関係している。英語圏のテック企業のリベラル色が極めて濃いのも、スポーツ・芸能と同じく全世界が潜在的な市場なので、自然に「国境や国籍にこだわらない」普遍主義になるためである。

大航海時代以降のヨーロッパ人が世界中をキリスト教を広めようとしたように、現代の西洋のリベラルもリベラル教を広めようとしている。日本人は、西洋リベラルが日本をリベラル教に改宗させる侵略を仕掛けていることを認識する必要がある。日本企業の株主至上主義への「改宗」を加速させた金融ビッグバン(←橋本龍太郎榊原英資長野厖士)に続く西洋のグローバリストの大攻勢である。

"Global Liberal Order"で検索すると、リベラル教のイエズス会やコミンテルンが見つかる。日本叩きによく使われる指数を作成しているのもその組織である。

補足

スポーツと芸能には

◆パフォーマンスそのものが重要でプレーヤーの属性の重要性は低い
◆優劣が勝敗や多数の観客の評価で決まるので公平性が高い

という特殊性があるが、多くの職業には同じ条件は当てはまらないので、下手に実力主義を導入すると、仕事のパフォーマンスではなく「上司に評価される能力」を競うことになってしまう。

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