フェミニズムが求める自由と猿の惑星

上野千鶴子の評価できる点は、フェミニズムの本質を言語化してくれるところである。

私はフェミニズムが男との平等を求める思想である以上に、自由を求める思想だと思っています。平等より、私は自由がほしかった。性的な身体の自由はとりわけ重要なものだと思っています。それを結婚によって手放すなんて、考えただけで恐ろしいくらいです。
恋愛はエゴイズムの闘いですよね。独占欲をあからさまに示すのは、人間らしいエゴイズムかもしれません。男はそれを無邪気に見せますね。男が不倫をするのは無邪気なエゴイストだからだといつも思います。女がそれを上回る無邪気なエゴイストになれば、男が黙って我慢してくれる関係になるかもしれません。

これ(⇧)を類人猿と比較する。

ゴリラのオスは基本的に集団内に1頭だけです。単独生活者のこともあれば、すでにハーレムを形成しているオスもいます。そのオスのもとにメスが寄っていく。面白いのはメスが所属する集団を変えるときです。集団同士が邂逅したときや、単独生活者のオスを見つけたときに、「これは」という相手を見つけると、そのオスのもとにさっさと移ってしまう。その瞬間から移った先の群れにいる血縁関係にないメスやその子どもたちとの生活を始めるのです。チンパンジーの場合、メスはオスを選ぶのではなく、所属する集団を選びます。複数のメスと乱婚的な関係を持ちながら複数のオスが共存しているのがチンパンジーの群れです。オスの序列ははっきりしていて、なおかつそれが競争で入れ替わる。

女がゴリラやチンパンジーの雌のように振舞えるようになることがフェミニズムの「自由」ということになる。子がいない「おひとりさま」の上野にとっては「性的な身体の自由はとりわけ重要なもの」なのだろうが、ヒトの女は自由と引き換えに男(子の父親)の助力を得ている。なので、上野の理想社会が実現すれば、結婚に消極的and/or子育てに非協力的な男が増える→女の子育てが難しくなる→少子化、という好ましくない事態が予想される。

生涯かけて築いた財産は、しかるべき者に残したい――それは自分の血を引いた子孫である。男がそう願っている以上、女の処女性と貞節に執着するのは無理からぬ話だった。要するに「家父長制」は、オスの子育て参加から生じた副産物と見ることができるのである。
私たちの日常は、さまざまな道徳的制約にしばられている・・・・・・そうした制約は、いまある社会秩序を維持するためのものだ。私たちの祖先は、メスや子どもたちに脅威を与えず、メスに助けの手を差しのべられる協力的なオスを必要としていた。そこで公と私の領域を区別し、特定の相手とパートナーシップを築くことにした。
子育てを父親が手伝うと、早く離乳ができる。類人猿ではなくヒトが地球を支配できたのは、そのおかげかもしれない。ただし男は、誰が父親かわからない子どもを助けるつもりはさらさらない。そこであの手この手を使って、女の性行動を管理下に置こうとする。

女が自由になると、ゴリラやチンパンジーのように「強い男」が多くの女を集める一方で多くの男があぶれるようになり、一夫一妻制から一夫多妻制に近づくことになるが、それは「人間社会にしか見られない高度な協力体制」が崩壊することを意味する。

私たちが築きあげ、価値を認めている社会は、ボノボやチンパンジーのライフスタイルとはまったく相容れない。人間の社会は、生物学で言う「協同繁殖」、つまり複数の個体が、全体の利益のために協力するようにできている。女たちが協力して子どもを見守るのは言うまでもなく、男たちも狩りや防衛のために力をあわせる。こうすれば、バイソンを追いこんで崖から落としたり、重い漁網を引きあげるなど、個人の力ではとうていできない仕事もやりとげられるのだ。そんな協力活動を可能にするには、すべての男が生殖の機会を持てることが肝要だ。協力に参加する個人的な動機、つまり努力の成果を持ちかえってやる家族がないと、男たちは動きないだろう。そして信頼関係も求められる。何日、何週間も家を離れることもあるのだから、留守のあいだに妙な男に入りこまれては困る。そんなことはないと信じているから、男は連れだって戦争や狩りに行けるのである。
人間社会にしか見られない高度な協力体制は、一夫一婦制が実現の鍵を握っていた。家庭の存在と、家庭を中心としたさまざまな社会慣行は、オスどうしの同盟関係を、他の霊長類では実現しえなかったレベルに引きあげた。

ゴリラやチンパンジーの雌の行動原理は人間の基準では信義則に反するので、女がそれと同じ行動原理で動くようになると、信頼関係が求められる「大規模な協力活動」は不可能になり、家庭も社会(共同体)も崩壊してしまう。

大規模な協力活動のためには「全体の利益のために個々の利益を我慢する」ことが必要だが、女の自由とはエゴイスト的に「自分の利益を最大化する」こと、つまりは全体最適よりも部分最適(局所最適)を優先することなので、閉塞した超格差社会になってしまうだろう。一部の強者が自由を謳歌する一方で、多数は「貧しくなる自由」をエンジョイすることになる。

人間は大まかに、「家族」と「共同体」、ふたつの集団に属して生活しています。家族では血縁や愛情を重視し、見返りを求めることなく奉仕できる関係を保っている一方、共同体には基本的にギブアンドテイクの関係が求められます。
翻って、サルはメスの血縁関係を中心に自分の利益を最大化するために群れをつくる動物です。つまり、利益が侵されるなら集団には残りませんし、利益を侵す者を集団に組み入れることもしません。
個人の利益さえ守られればいいなら、人は他人と何かを分かち合う必要がなくなり、他人を思いやることもなくなってしまうでしょう。それでは社会がますます閉塞してしまうのではないかと私は懸念しているんです。
賃金が上がらないといっても、外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きて行けるし、幸せでしょう?

真のフェミニズムの根底にあるのは女の猿的本能なので、フェミ化社会が猿社会のようになるのは必然と言えよう。フェミニズムとは人間を止める/人間社会を終わらせる思想である。

付録

これ(⇩)はBlack Lives Matterの主張(What We Believe)の一部だが、人間独特の核家族を破壊してチンパンジーのような群れに作り替えるとしている。啓蒙思想→マルクス主義→新左翼→ポストモダンの系譜の彼らの真のゴールは黒人差別解消などというちっぽけなものではなく、人間社会を根底から解体(脱構築)して「猿の惑星」を作ることである。

We disrupt the Western-prescribed nuclear family structure requirement by supporting each other as extended families and “villages” that collectively care for one another, especially our children, to the degree that mothers, parents, and children are comfortable.
男性にも家事をさせるべきであり、家事は白日のもとになされるべきです。コンミューンで行なったり、全員が働いている共同体で行うべきです。
家族のゲットーを破壊しなければ。
人種問題にしろ老人問題にしろ、ほとんどあらゆる差別反対運動は、カテゴリーを解体して個人に還元せよという要求をもっているように見える。
個人主義という思想は、カテゴリーを解体しつくしそうとする。女の運動もまたそれに手を貸している。大人と子供、男と女、老人と若者というカテゴリーがすべて解体し、平等な個人がむき出された時に、一体どんな理想社会が実現するのか、私自身もそれに手を貸しながら、ふとアンビヴァレントな思いを避けることができない。
家族という集団に縛られないことで自由になれるかというと、実はそうではありません。個人のままでいると、序列のある社会の中に組み込まれやすくなってしまうのが現実なわけです。それはまさにサルと同じ社会構造ですよね。

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