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『I.G交差点』ふたりめ:新潟スタジオ 小村方宏治 (前編)

『I.G交差点』とは……

Production I.Gのnoteをスタートしようとなったときに、作品の公式サイトでも、I.Gの公式サイトでもない、noteという媒体で何を伝えたいのかな考えました。
作品のことでもなくて、単なる企業の今を伝えるということでもないな、そうぼんやり思いました。じゃあこの場では何を発信したいのか?考えて、考えた結果、もっと内側の「人」のことを伝えられないか、と思い立ち動き出したのが「I.G交差点」です。
ものづくりの会社には毎日たくさんのスタッフが出入りします。ずっとI.Gにいる人もいれば、今日新しく入ってくる人、そして、新しい場所へ向かう人もいます。
人が行きかう「場」としてのI.Gの輪郭を、様々な立ち位置の方たちからインタビュー形式でお話しを伺いながら、見つけていきたいと思います。
[ゲストと聞き手]
ふたりめ 小村方宏治 (株式会社プロダクション・アイジー製造技術部 作画課 新潟スタジオ所属)
聞き手 藤咲淳一(株式会社プロダクション・アイジー 脚本家)

ふたりめのゲストは、プロダクション I.G 作画課 新潟スタジオ(通称、 I.G新潟)を率いるアニメーター・演出家の小村方宏治さんです。

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(自画像:小村方宏治)

――コムさん(小村方さん)、おつかれさまです。今日はよろしくお願い致します。

小村方:お疲れさまです。あまりこういうの慣れてないんでお手柔らかにお願いします。

――雑談みたいな感じでいければ大丈夫です。まずはI.G新潟がどんなスタジオなのか、コムさんからご紹介いただければと思います。

小村方:わかりました。

小村方:I.G新潟は名前のとおり新潟県にある、プロダクション I.G作画課の分室です。東京から新幹線で2時間、新潟駅から10分という立地です。近所には日本一の大河、信濃川と砂浜。そして港が歩いていける距離にあります。

――魚とか美味しそうですね。

小村方:このインタビューで新潟に来れていたら一緒にご飯できましたね。

――リモートでの取材なのが残念です。(※ 2020年12月2日、ZOOMでの取材)

小村方:落ち着いたら是非。お酒も美味しいですよ。

――是非! そんな環境の良さそうな場所にスタジオを構えているコムさんにお聞きしたいんですが、コムさんって最初からI.G所属のアニメーターだったんですか?

小村方:最初は埼玉県にある別のスタジオにいました。亜細亜堂と言うんですけど。

――亜細亜堂さん、存じております。そういえば僕がI.Gに入った‘96年頃は、亜細亜堂出身の方が割とI.Gの仕事をしていたような気がします。

小村方:I.Gで僕の他に仕事していたのは、荒川(真嗣)さんや、浜名(孝行)さん。先輩だったり同期だったりします。

――一緒に仕事したことありますので、ふたりともよく知ってます。

小村方:まだ新人だった頃に亜細亜堂さんで丁寧に仕事をしていくことなど、きちんと教育してくれたお陰で、そこでのやり方をI.Gタツノコ(プロダクション I.G創業当時の名称)でも動画さんに教えていました。

――なるほど。うちには亜細亜堂さんの遺伝子も入ってるんですね。

小村方:アニメーション業界はいろんな人が集まっていますから。僕自身は他にもいろんな方から刺激をもらってきました。

金田伊功さんと安彦良和さんは学生時代から今も頂点で、黄瀬(和哉)さんや後藤(隆幸)さんも、仕事を近くで見て影響を受けています。あとは、アニメーターではないのですが、多田(俊介)監督とか。
なんども一緒に仕事をさせていただいているんですが、多田監督の仕事の進め方は好きですね。ポイントを示して詳細は描き手に任せ、あらゆるセクションとフランクに会話している。あれは制作進行出身だからなのかなぁ。そんな感じで多田監督に限らず、多くのスタッフからいろんな影響を受けていますね。

――人がいいというか、コムさんらしいというか。そんなコムさんがI.G新潟を任されることになったきっかけってどうしてなのですか?

小村方:スピードと腕前が平均以下で将来的に厳しいかなと、アニメーターとしての限界を感じていたことと、親から新潟に帰って来い と言われたこともあって、石川(光久)さんにそれを伝えたら、急に提案されました。

――あいかわらずあの人、いきなりですね。

小村方:そうかも。質問しても聞きたい答えが返ってくることのほうが少ないですし。数手先を読んでいるというか。自分が専門学校の講師の依頼を受けて相談したときも即断でしたし。

――石川さん、どう思います?

小村方:初めて意識したのは「新潟でやってみないか」って言われた時。最初はよく飲み込めなかったけど。今もそんな感じがずっと続いている感じがします。言い方が悪いけど、得体のしれないところがあるなと。話をしても、聞きたいところの「いいよ」「だめだよ」は置いていかれて話題が変わったりするので、気がついたら煙に巻かれている。それなのに結果的には流れがうまくいっていたりするので、そういうところはすごい人だなと思います。

――そんな石川さんが声をかけたのは時期としてはいつ頃ですか?

小村方:丁度、イング(株式会社イング 企画・製作を目的として設立されたI.G関連会社。)が出来た頃かな。

――イングの創設が1990年6月ですから、1988年くらい?

小村方:『機動警察パトレイバー2 the Movie』の頃からだから、たぶんそう。自分はアニメーターで経営者とかじゃないから、とにかく言われるままに動いていたら、いつの間にかI.G新潟ができていた。

――……I.Gらしいと言えば、I.Gらしいですが。

小村方:アニメーターの道を諦めかけていたとこにI.G新潟の話が出たので渡りに舟というか、とにかく続けられるならと言うことと、故郷からでもI.Gを支えられる、手助けになれるのならと、ありがたくお受けした次第です。

とにかく作画以外のお膳立ては本社が全部やってくれて、当時の制作さんたちにもすごく助けられたし。

――当時というと、三本(隆二)さん、内田(哲夫)さん、坂部(久明)さん?

小村方:そう。彼らにスタジオを管理してもらっていた。だから独立したって認識はなくて、一分室みたいな感じ。あの頃の、1スタの後藤、2スタの黄瀬みたいになれるといいなと思っていた。

――どうやってアニメーターさんを集めたのですか?

小村方:最初の頃は周りにアニメーターとかいないから、まず動画さんを集めるところから始めて。

――今ならWEBでしょうけど、あの頃は求人雑誌とかですか?

小村方:新聞の折り込み広告。

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――え!? ……たしかにセル画時代の仕上げさんとか、色を塗る仕事は内職みたいな形で雑誌や新聞の広告があったのは覚えていますけど……。

小村方:とにかく人を集めなくちゃいけないから最初の数年はそんな感じで募集をかけて、来てくれた人に動画を教えていました。自分が知っているのは原画作業までの知識だから、スタジオを運営することなんてまったくできていなくて。

そんな感じだったので、I.G新潟設立当初の頃の人たちは相当厳しくて、2~3年で辞めていかれました。

――それ以降の採用はどうされたんですか?

小村方:I.G本社で実施してる定期採用の面接に僕も参加して、新潟勤務希望者を募る形になりました。
新潟出身だったり、新潟に所縁があったり、新潟に来てもいいというような人にそんな質問をしていたと思います。東京の専門学校に行っていたけど、新潟で働く可能性がちょっとでもあるならと声をかけていました。

――苦労なされたのですね……。どれぐらいで形になったのですか?

小村方:ゼロからのスタートで10人揃うまでに5年以上かかりました。今は地元にアニメ関係の専門学校もできたので、採用はだいぶ安定してきています。

――僕が知っているI.G新潟はその形になったばかりの頃だったのですね。I.G新潟の中で一番長く在籍されてる方って誰ですか?

小村方:新野量太かな。

――ああ、新野さん。うちのキーアニメーターの一人ですよね。

小村方:彼で25、6年くらい。

――今、どれぐらいのスタッフ数になりました?

小村方:25名かな。藤咲さんとやっていた『BLOOD+』の頃からそんな変わってないかな。

――懐かしい。そういえばコムさんに作打ちとかの度にきてもらっていましたね。ホテル事件、覚えています。

小村方:(笑)

――うちの制作進行が急にコムさん、こっちに追い込みで呼ぶことになって予約したホテルがちょっと怪しげな大人のホテルというか。

小村方:あそこやっぱりそうだったのですか。

――いや、まあ……、そうですね。

小村方:入った感じでそうでしたね(苦笑)

後編に続く
記事公開日:2021年3月5日