I.Gログ 第01回「和室」
「I.Gログ」は、いずれ編纂されるかもしれないProduction I.G社史において正式に記録されることもなくただ語り継がれていくであろう昔話しをnoteという形で記録に残しておこうというコラムとなります。
筆者の主観を軸とした、その時、その瞬間の記憶と聞いた話で構成されておりますので、その際には修正を加えていこうと思います。
文・藤咲淳一(株式会社プロダクション・アイジー 脚本家)
和室とは、一般的に畳の敷かれた部屋のことです。
江戸間、京間、中京間、団地間と呼ばれるように、土地や用途によって畳そのものの大きさが異なり部屋の広さも変化します。
一般の住居において八畳、六畳、四畳半といった広さの和室が設けられることが多い印象があります。
この畳の敷かれた和室が、かつてプロダクション I.Gに 存在していた時期がありました。
それは今から四半世紀ほど前のこと。
I.Gが国分寺市を拠点としていた1990年代後半の話になります。
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(押井守監督)のビデオソフトがビルボード誌のアニメチャートで全米1位を記録して話題となっていた時期でもありました。
その頃、I.Gは劇場作品『人狼 JIN-ROH』(沖浦啓之監督)を制作するために国分寺駅の南口にある物件の一室を借りておりました。
後にI.Gが購入し「INGビル」と呼ばれるようになる物件であります。(現在は売却済み)
この物件、I.Gの所有物件となる前は 賃貸物件であり、その当時は1、2階がオフィススペース、3、4階が3LDK の住居スペースでした。
この住居スペースは一般的な賃貸物件で、当然、キッチンもあれば浴室もあり、更には和室もあったのです。
地上からは数段の階段を登ったところが1階部分となり、1階東側の下は半地下の駐車場、各フロアに共用通路を挟んで2部屋ずつある物件で、そのうちの2階部分をI.Gが借りておりました。
2階西側に劇場作品『人狼 JIN-ROH』の制作陣が陣取り、東側にデジタル班が入っており、デジタル班では当時、ケンブリッジ・アニメーションシステムのAnimoというソフトを使ったデジタルペイントと撮影が行われていたのです。
尚、デジタルペイントを使った初期作品としてOVA『パンツァードラグーン』(高木真司監督)、ゲーム内映像としてPlayStationソフト『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』(ムービーパート:北久保弘之監督)があります。
I.G最後の劇場セルアニメーション作品と、Animoを使用したデジタルペイント&撮影作品が同じ建物の中で作られていたことは実に興味深い話です。
実質的なI.G初デジタル制作作品は
「IDOLFREAK Merry Christmas! Momiji!」らしいのですが、
確かな資料が残されておりません。
1階西側には既に株式会社トランス・アーツ(当時)の撮影部が入り、休憩時間ともなると上半身裸の野郎どもが駐車スペースで汗を拭っていた光景が記憶に色濃く残っています。
後にこの物件の1階東側にI.GのゲームスタジオであるGスタジオが入居するのだが、入居当時はスタッフが2名と機材だけが置かれたのみであったため、空いていた空間は会議スペースとして利用されていました。
そしてそこで開催されたのが、押井守による、企画を通すためだけのノウハウ講座「押井塾」でした。
学んだことは企画書にはインパクトのある絵をつかった表紙、キャッチコピー、強いキャラ、テーマを含んだあらすじがあるだけでいい――、こんな感じでやっておりました。
「押井塾」については改めて別の回で語れればと思います。
さて、このような感じでI.Gはこの物件を侵食しはじめ、日々増える作業と人員を収めるために、ついに上部の住居スペースも借り上げることとなりました。
更にはデジタル化の波に押され、この物件を購入し変電設備まで設置することになるのですが、それはまた後ほど。
今回はそうなる前の、住居スペースを借りたばかりの頃にあった和室の話をしたいと思います。
前置きがかなり長くなりました。
この和室スペースですが、借りたことによって一番喜んだのは、連日この物件に詰めていたアニメーターたちでした。
夜を徹して作業をしていた彼らが仮眠を取る場所と言えば、固い床の上に敷いた段ボールか、椅子を並べて作った不安定な簡易ベッドの上が定番だったのですが、それが畳という日本の文化が生んだ奇跡の工芸品が加わったわけですから。
元々和室は作画机を置くことができないので会議スペースとして使うというお達しがあったような気もしましたが、午前中に使おうとするとだいたい誰かが寝ている次第。
起こすと不満を言いながら作画机に戻っていくアニメーターの姿を何度か見かけたことがあります。
更にはキッチンで自炊生活を始めるアニメーターもいたとかいないとか。
あくまでも筆者の主観による当時の感想です。筆者もゲームスタジオ時代には椅子を3つ並べて寝ていた人間でした。段ボールよりは椅子派です。
当然、浴室なんてあるものですから、入ろうとする人間もいるわけで――、そうなると水道料金 やら光熱費がかさむということもあり、浴室は物置きスペースに早々に切り替わることとなったのでした。
この和室の会議スペースですが、どこか和む雰囲気がありつつも、いろいろな相談事が決まっていった場所でもあります。
記憶に残る限りといいますか、その場にいたので覚えているのですが、押井塾が1階東側のGスタジオの会議スペースがなくなり、この和室へと開催の場を移すことになりました。
当時の押井塾は社内の制作進行、演出、アニメーターを対象に押井さんがボランティアで始めた企画塾です。初期メンバーは七名ほどおりました。
この場所で押井塾の最初の企画『BLOOD THE LAST VAMPIRE』が産声をあげたのです。
この頃からアドバイザーとして北久保さんが参加されていたと思います。
詳しくは『BLOOD THE LAST VAMPIRE』のWEBサイトにその当時に記録が残されておりますのでそちらをご覧いただくこととして、
この和室の中でキャラクターデザインを誰にするかという具体的な話があがったときに、おそらく北久保さんからだとは思うのですが、寺田克也さんの名前があがり、押井さんが寺田さんに直接電話をするという場面に立ち会ったことでしょうか。
「ああ、企画が動き出した」
それまで外部の人間をいれずに動かしていたものに、新しい血が入る瞬間でした。
I.G という会社は、常に新しい血を入れてここまで成長してきた会社だと思います。創業からこれまで30年以上の歴史を持つ中で、尚も変わっていこうとする中で忘れられようとしていく歴史の1ページを少しでも残せていけたら良い。
それがこのI.Gログの主旨となります。
かつてI.GのWEBには三本隆二氏の連載コラム『凸あれば凹あり』(現在非公開)がありました。I.G黎明期から1995年頃までの回顧録となっておりました。筆者の知らない時代のI.Gの軌跡は当時のスタッフにいつか確認できればと思っています。
もちろん、関係者の記憶に頼ったログなので事実と異なることもあるのではないかと思いますが、それは多方面よりご意見を頂戴しつつ加筆修正していこうと思います。
では次回のI.Gログをお楽しみに。
I.Gログの更新は不定期となります。