誕生日の前日に祖父が亡くなった話

注意

⚠アイマスの話はありません
⚠この件についてたくちゅなに対する配慮は一切不要です。僕は喪中関係なく新年をお祝いするし、いつも通りインターネットで楽しく過ごします。

事の一部始終

 2023年12月19日、祖父が亡くなった。誕生日の前日だった。
祖父は4,5年前から認知症がかなり進行しており、毎年お正月に会うたびにこちらのことを分かっているのかいないのか、という感じだった。そのときからほとんど寝たきり状態だった。
 ただ、僕にとって祖父母の家に行くのは1月2日の恒例行事にすぎない。祖母が飼っているチワワにめちゃくちゃ吠えられ、お年玉を回収し、部屋にある小さいテレビで駅伝やお笑いを見つつ、昼食後には寝落ちをして夕方ぐらいに帰るというただそれだけのイベントだった。「会えるのは今年が最後かもしれない」などと緊張感のある心持ちは一切なかった。
 2023年12月16日、祖父が入院すると母に知らされ、「もうそこまで来たか」と思った。逆に言えばそれ以上のことは特になにも思わなかった。それまでも母は定期的に祖父母の家に様子を見に行っており、ステージが一個進んだんだなぁという認識だった。
 2023年12月19日夜、母が「じいちゃんがヤバいらしいから行ってくる」と言って病院へ行った。それから間もなく、LINEで祖父が亡くなったこと、終末にお通夜とお葬式があると連絡が入った。「思ったよりだいぶはやいな」と思った。薄情かもしれないが、事実だ。その場に立ち会ったわけでもないのでこの時点ではあまり実感もなく、なにかすごいスピードで話が進んでいるなぁという感じがした。
 この数ヶ月間、僕個人でもかなり色々なことが起きて本当に忙しく、「事のスピード感」を感じるのが第一印象だった。これについてはまた別の機会にでも。

 誕生日は宅配ピザを食べたり、フォロワーからもらったデュエマのカードを眺めたりだらだら過ごしてお通夜の日になった。
 葬儀は良い意味で緊張感が無く、終始明るい雰囲気だった。楽観的なのは我が家系(特に母方)の1番の魅力だと思う。
 クソ寒いなか会場に向かうと、既に祖母といとこ一家がいた。いとこ一家は会うのが久しぶり(10年振りくらい)で、少し早いお正月といったにぎやかな感じだった。やたらお菓子を勧めてくるおば、スーツで信玄餅を食べようとする従兄弟、母とおば(母の姉)の3人で延々と喋っている従姉妹、式場にあるテレビでYoutubeから進撃の巨人のMVを流す妹。ネトフリに前の人の検索履歴が残ってるぞと色々探りを入れる父。完全に正月のノリだと思ったが、僕自身もソシャゲのデイリーを消化したりYoutubeを見たりTwitterを見たりして始まるまでの時間を潰した。
 もちろん、お通夜自体は常識的に進行した。退屈なお経は高校時代を思い出した。
 思ってたよりあっさりしてたな、という感じでお通夜を終え、良い時間なので夕飯にしようとのことになった。「ここUber来るらしいよ」「アカウント作ってないからだれかない?」「ほっともっとでいいか」「じゃあUberじゃなくて取りに行けばよくない?」そしてスマホを机に置いてメモ帳を取り出す母。そのスマホはなんのためにある。
 お通夜はそんな感じですぐに終わった。翌日の葬式は朝早くから始まった。
 土曜に仕事しなきゃいけないお坊さんも大変だなぁと思いつつ、葬儀もお通夜と同じく常識的に進行した。さすがにここでは昨日よりもしんみりとした空気感ではあったし、亡くなった祖父の姿は結構ショッキングに映った。しかし、それでも母は「よく焼きで」などとベタすぎる冗談を言ったり、従姉妹は棺に入れるおにぎりを見て「焼きおにぎり作る」などとなど言ったりで緊張感のなさは相変わらずだった。これを読んでいる人は悲しさを紛らわすためじゃないかと思うかもしれない。もちろん全くないとは言えないが、家族の僕からするとただ本当に冗談を言いたいだけだと思う。なぜなら、曾祖父のときもそうだったから。
 母と叔母の組(両方方向音痴属性)が道を間違えるという軽いアクシデントもありつつ、火葬場に向かった。道中は火葬場に近くなるにつれて葬儀屋の看板がそこら中で見られた。
 それから、火葬が終了するまで待合室で待つことになった。喫茶メニューで注文できたコーヒーとアイスはいかにもレトロという感じ(サクランボとピコラが乗ってるアレ)で絵に描いたような感じだった。その後、祖母が年末ジャンボ宝くじの購入期間が終わっていることに驚いたり、従兄弟一家が有馬記念の予想をしたりしながら時間は流れ、火葬が終わった。
 納骨のシーンでは、意外にも骨がきれいに残っていたり、祖母が一本だけ残っていた歯を発見するといったいい話もありつつ、このようにして葬儀の全工程が終了した。

宗教の始まりは弔いにある?

 暇すぎる読経の最中、腑に落ちるようにこれを感じた。
僕は宗教家でもなければ宗教学者でもなく、また何かの宗教を信仰している自覚もない。強いていえば高校と大学で宗教の授業を単位のために仕方なく履修したくらいである。
 日本人はよく「無宗教家」といわれ、またその反論として「日本教」などと説明されることもある。これについて僕がどう思うかはまた別の話題になるが、僕は祖父の葬儀を通して宗教の本質は弔いにあり、死者を弔う気持ちがあるなら誰しも宗教的な心があるものだと思った。そこには神や仏といった人を超えた存在に対しての崇拝の心は必要ないと思う。
 葬儀自体がどこかの宗教の形式に沿っていなくとも、死者が安らかに眠れるようにと思う気持ちは十分宗教的な心だと思う。
 これが何か祖父の死と直接関係あるかと言われれば、別に無い気がする。ただ、勉強にはなったと思う。

寂しくなるのはおそらくこれから

 人が亡くなって寂しい思いをするのは、亡くなった事実そのものよりも、それによってこれまで得られたものが得られなくなったと感じたときだと思う。
 来年もいつも通り祖母の家に遊びに行くが、そこに祖父はもういない。これについて、1月2日に僕がどう感じるかはそのときになってみないと分からない。すごく寂しいと感じるか、お年玉が1人分減ったなぁと感じるか、はたまた特に何も感じないか。僕は楽しいお正月を過ごせたらいいなと思う。そっちのほうが気分はいいはずだから。
 それから、まだ生きている祖母二人(父方の祖父は僕が生まれる前に亡くなっている)の5年後10年後を考えると、「ちょっとヤバいな」とは思った。
 今ある日常を大切に、というとありきたりすぎるが、社会人になる直前でこれらに気付けたのは幸いなことだと思う。

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