受容するための時間

ある日曜日の夕方、父の左手の爪を切りながら、この人は残酷な事実を受容するための時間の中にいるのだ、とふと思った。ずっと同じ状況だったわけではない。少なくともある時点までは、目の前に伸びる道から外れて歩いてみることもできたはずだ。しかしいまやそれも不可能になった。彼はもう二度と自分の足で走れないし、言葉で十分なコミュニケーションを取ることも難しい。そう言ってしまうとシンプルだが、それが意味するところを本当に理解できるのは本人だけだろう。僕を含めたまわりの人間は、結局のところ想像することしかできない。

倒れてからの父は、彼なりにと言っていいだろう、リハビリに取り組んでいるが、それも現状維持か、さらなる機能低下を少しでも遅らせるという意味合いしかない。この数年は、自分の体が元に戻ることはないという絶望と向き合う日々でもあっただろう。趣味に仕事に、と忙しく動き回る同世代の知人たちの話を耳にして、思うところも多いかもしれない。

でも本当は、たとえば僕に残されているのも、逃れられない未来を受容するための時間だけなのかもしれない。一見すると“拒絶する自由”を持っているようでいて、実はそれは“いったん拒絶する自由”であるに過ぎないのかもしれない。道の上で立ち止まり、その外側に足を一歩踏み出す。そうして自由に歩き出したつもりでいる。しかし道は、限りなく横幅を広げながらどこまでも僕の足元に存在し続けるのではないか。それは辛抱強くうずくまっている。沈黙を守りつつ、いつまでも待ち続ける。まるで茂みに潜む肉食獣のように。なぜなら、それは知っているからだ。僕がいつか必ずもともと進んでいた方向へ向かうことになる、と。

いまの父には、“いったん拒絶する自由”すらほとんど残されていない。彼は少しずつではあるが、色々なことを諦めつつあるように見える。もしかするとその諦めだけが、彼に残された最後の自由なのかもしれないけれど。

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