家々の間を歩きながら

季節は地平線から地平線へと白くたなびく布地のように目の前を過ぎていく。今年の春はことのほか寒かったように記憶しているけれど、あれらの日々に差し込んでいた陽光は、まだかすかに視界の隅を暖めている。6月の日中の光からは失われてしまった穏やかさがそこにはある。

件の騒ぎだけが原因というわけではないが、まとまった時間が取れてもさして遠出はせず、もっぱら近所を散歩していた。大抵はカメラを携えて。自宅の周辺は高低差に乏しく、坂道や階段が好きな自分にとってはいささか物足りない。少しでも変化に富んだ風景を求めて住宅地を通り抜け、その先の川に沿ってしばらく歩き、また家々の間に戻る、ということを繰り返す。

住宅地を歩いていると、しばしば新築の家を見かける。考えてみれば当たり前だが、国全体の人口が減少しつつあるとはいえ、新しい家は建てられ続けているのである。汚れひとつない壁、透き通った窓、みずみずしく堂々とした植え込み。駐車スペースの真っ白なコンクリートが、日差しを受けて塩湖のように輝いている。そこには何の不安も恐れもなく、地に足のついた未来への展望が満ちているように見える。それはどこか明るい箱庭を思わせる。

新しく建てられた家を目にするとき、自分にもこんな場所にたどり着く可能性があったのだろうか、と思うことがある。それをはっきりと望んでいたわけではない。ただ、かつて自分に含まれていたかもしれない可能性のひとつの行き先として、そういった世界を思い浮かべるのである。まるで、道路の反対側を幸せそうに歩く人々の中に、そうあり得たかもしれないもうひとりの自分の姿を見るように。しかしすぐに、いやそうではないだろう、と思い直す。きっとどんな選択肢を選んだとしても、自分は今いる場所とそう大差ないところに来ていただろう。そして同じような苦しみや時折訪れる安らぎを抱えて歩き続けていただろう。それに、どんな家庭にも仄暗い部分はある。私が幸せそうだと思う人々も、それぞれの地獄をどこかにひっそりと抱えているかもしれない。

あるとき、解体中の古い家の前を通りがかったことがあった。まるで機械のカットモデルのように、中の構造がよく見えた。かつて住人とともに時を過ごしてきた柱の一本一本、色のあせた壁、古びた日用品が、目の前で廃棄物に変わっていく。そこは死にゆくもの、崩れゆくものから滲み出す沈黙で満たされていた。

新しい家と古い家の間に横たわる時間を追うように、あるいは遡るように私は歩く。あらゆるものが蔦に覆われ、灌木に貫かれ、朽ちていくさまを思い浮かべながら。いつか遠い未来に私という人間が消滅すれば、このみすぼらしい孤独も、恐怖も、すべて消えてなくなる。これほど確固として存在しているように見える記憶や感情がなぜ跡形もなく消え去ってしまうのだろう、と思う。目の前に去来するそれらの思惟の輪郭をなぞっているうちに、見覚えのある道に出ていることに気づく。ここまでくれば、自宅のある通りまであと少しである。

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