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ノーギャラ演奏依頼問題と社員の賃上げ問題

Twitterなどで定期的に見かける話として、「ノーギャラ演奏依頼問題」というのがある(命名は適当)。書いた通りで「ノーギャラで演奏してくれという依頼が来た。分かってない」という奴である。

プロに対してノーギャラでの演奏依頼というのは、確かにどうなのかとは思うのだが、一方でそれを「分かっていない」的な言い方で捉えるのもどうかと思って、色々もやもやしたりする問題であったりする。

そもそもプロの定義であるとか、ノーギャラと言われる前にギャランティは提示しているのかとか、相談側は正式な演奏依頼のつもりだったのかとか、条件次第で色々なパターンが考えられてしまうのだが、今回見かけた話でちょっと気になったのは、そもそも我々は人の労働に対する対価をどのように捉えているかというものだ。

今回の「分かっていない」喩えというのはこのようなものだった。(記事のリンクを見失ってしまったのでうろ覚えで恐縮です。)

「飲食店でただで食事を食わせろという人はいないよね」

たしかにその通りなのだが、ここで気になるのが、そこでいう「ただではない」ものは、提供される食事だろうか、その食事を作る行為だろうか、という点である。我々は後者をどこまで意識できているだろうか。

なぜそのような事を考えるかというと、今回様々な業種で続く「値上げ」の理由が、「原材料やエネルギーコストの上昇」によるものばかりで、「従業員の給与改善」みたいな理由が見当たらないからだ。例えば値上げの理由として、「物価上昇に対して従業員の給与を上げるため、値上げします」という説明がされた場合、我々はそれをどこまで素直に受け入れられるだろうか。

もっと踏み込むなら「従業員」が「経営者」だった場合はどうだろうか。

これがどう「ノーギャラ演奏依頼」問題に結びつくかというと、我々は「労働力」という見えにくいものに対する対価を、「原材料」のような見えやすいものに対する対価より、無意識に低く見積もってしまっていないかということなのだ。

「演奏会」のようなパッケージであれば、そこに対価を意識することはできるが、それは「演奏会」に払うものだ。それに対して、「演奏する」という行為については、そこまで意識ができていないからこそ、ノーギャラという発想が出てくるのではないだろうか。


もちろん、だからノーギャラが是という話ではまったくなくて、だったら同じ発想で社員の給与を上げるための値上げも応援していこうよ、という話である。

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