自立の道

久しぶりに文章教室へ。
鎌倉へ、観光目的ではない理由で行くのは初めてかもしれない。
鎌倉に近づけば近づくほど、若いカップルが増え、好きでもない人に気を遣って鎌倉デートに行ったことを思い出す。
真新しい新鮮で楽しそうな店が並ぶ道を、夏の暑い日に二人はくたくたになるまで歩き、美味しいアイスクリームを頬張った。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、付き合っていた相手の状況は今は何も知らない。
流行りのコンテンツや共通の話題を通して人と繋がろうと努力してきた気がするが、今は全くその気持ちがなくなった。
鎌倉駅から出てすぐの大通りの道を過ぎ、裏路地に足をひとり踏み入れたとき、何か解放された気分になった。

小さな古民家の引き戸を引き、薄暗い部屋の中を見渡す。教室での参加者は、初対面の女性ふたり。
今まで親しんできた参加者は誰一人いなかったので、少し残念に思ったが、書いてきた文章を読み、そこから派生した会話を重ねてすぐに打ち解けた。
隣にまた部屋があり、そこではゲストハウスとして過ごす外国人の声がたびたび聞こえる。私たちの会話が盛り上がり始めると、ぴしゃりと扉を閉められる。
「あら、うるさかったらごめんなさいね」とあっけらかんと彼女は言った。その気負いのなさが心地よい。

私の発言は、確かにストレートだと思う。
分かりやすい言葉を選んで使うのが好みで、そこが良いと伝えてもらえることが多くなった。この真っ直ぐな物言いは、父親にも母親にも似ていない。私が選んだコミニケーションの方法だと考える。
自分自身のことを知りたい。それを受け止めるのも自分だ。素直で正直な自己対話。そこから目を背けていては、苦しいままだろう。応えようとするその覚悟に人は集い、ここでは必ず反応をもらえるのだ。

「社会では自分の思ったことや感じたことを話す機会なんてない」ともう片方の参加者の彼女は言ったので、本当にその通りですよね、と心の中で頷く。社会に紛れてずっと生きていたら、同じように何も感じようとせず生きていたかもしれない。ただ、少なからず文を書くことに心惹かれる部分があるとすれば、何か必ず、誰もがあっと驚くような、唯一無二の物事の感じ方があると思うのだ。その輝きを私は眺めてみたい。そのために、私は人と関わってゆきたい。

矛盾しているようだが、人のことは一生分からないものだ。どんなに心を許し親しくなった者でも、全く話が噛み合わないことはあり、いつもそのことで悲しい想いをする。
自分の心に正直な人は、他者の選択をも尊重する。たとえ期待した反応が返ってこなくても、動じることなく笑い話にしてしまう。
私はそこまで自立した視線で、人をみることができているか?
口語会話では疎通できなかった感情を昇華させるために、私は文を書いているところがあるかもしれない。

「わたしはわたしのために生き
あなたはあなたのために生きる
わたしはあなたの期待に応えるためにこの世に生きているわけじゃない
あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない
わたしはわたしあなたはあなた
もしも偶然が私たちを出会わせるならそれは素敵なこと
でも出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいこと」
ゲシュタルトの祈りの文を思い出す。

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途中、漢字の使い方を意図的に変えているのか?という話になった。
「喜び」と「歓び」を、私は混在させて文を書いていたので指摘されたのだ。
喜びは表面的なものであり、歓びはもっと自分に根差した感情のことを指すのではないかという話になる。漢字ひとつでも、文章の印象が変わるというのは新しい発見だった。奥が深いなと思う。
知識欲が満たされた時は「喜び」と書くことにしたい。自分の内面を深く掘り下げていくことの発見については「歓び」という表現を使っていきたい。
とにもかくにも、漢字についてはもっと勉強しておきたいと思うところだ。

私が愛読しているブロガーさんが記事をあげた。最後にとても簡素で印象的な一言を記していたのが、強烈に私の心を打った。七夕の日に願った想いは、誰のためでもない「私が私を楽しめますように」。

私も少し文を変えて同じように願う。
「私が私を愉しめますように」

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