インスタント交流と簡素な思い出

ここ最近、忙しかった… という訳でもなく。
単純に文章を書く機会を逃していた。

自分一人でいられる時間が少なくなった。その分、私の周りには沢山の人で賑わっていて、淋しさを感じないのは嬉しい。
けど、私はこの盛んで明るい交流のことを、「インスタント交流」と心の中で密かにそう呼んでいる。繋がれる話題や用が済んでしまえば、「一時的」な関わりなので、何も無かったかのように消えるだろう。自分の心に印象深く残る人間関係や思い出にはなりづらい。

そう思うと、馬鹿馬鹿しい。色んなことが。
私はもっとドラマチックな人生が良かったのに。
けれど、割り切ってしまえば良いのだ。コミュニティの中で生きるとは、そういうことだろう。私にとってさほど重要ではないもの、けれど今まで見下してきたものに、今は助けられている。宝石みたいにキラキラと光る。私にとって退屈な物事に対して関心を持つ他者と関わるのは、自分のこだわりや執着に気付くことに繋がるし、価値観も広がるので有難いことであって、どちらかというと、自分にとって苦手なことに、えいや!と意欲的に取り組んでみる。自分の意思で。
大事なのは、お別れの時がきても、何も思わないこと。相手のせいにしたら、「自分が」苦しいからね。

あからさまに傷つくことが減った。
本当に興味があること、本当の私(そう呼ぶ事にする)は、人との交流の中では表れない。「本当のこと」は、一人でいる時だけ楽しめば良くて、外側のペルソナに自分を重ねることさえしなければ、何一つ影響は受けないで済む。

私は、私が愛したいと想う人を選んで存分に愛してもいい。それが表に現れることはないと分かっていても、その気持ちを抑えなくてもいい。その事実が、どれだけ私の心の助けになっているか。
私は、誰にも支配されなくていい。自分の好きなように自由に動き回っていい。誰にも心理的介入を許さない。その厳しさが、どれだけ私の心を軽くするか。

私は「特別な」人間関係を作ろうとは思わない。恋愛関係は勿論、濃厚で、なんでも話せる深い関係を築くのは向いてないと分かった。共依存関係にもなりやすい。理解してもらおうと思えば思うほど、孤独になる。必ずそこには都合の良い支配欲が見え隠れする。誰からも愛情を与えてもらおうと、思わないこと。一生かけて精神的自立をするのだから、心が揺れ動くことがあってもいいが、できれば毎日このことは忘れないでいたい。

私はこの現世で、宿を借りてきた。私は適当な家族を選んで住むことになった。家族以外の他者もいて、そこにはいろんな人が寝泊まりし、生活を共有しては、何も無かったかのように、出掛けてしまうこともある。
時間が経てば、とうとう家族でさえ別れなくてはいけない時がくる。誰よりも永く時間を共有した友と別れて、みな一人で扉を開けて、宿を発つ。あの優しい温もりを心に残して。
別れの苦しさを味わうぐらいだったら、ひとりでいたほうがマシだったか?でも、他者と関わる以外に、私にできることって何?

(ここからもうちょっと考えて。)

また今日も姉が泣いている。自分の未来に絶望している。笑顔を最後にみたのはいつだったか? 子供たちは、変わらず元気。姉が子供の前で泣いている。どうすればよいのか分からない。姉は子供の前で笑えない。楽しく笑えるような演技ができない。辛いだろう。悲しいだろう。そして私にはその苦しみが理解できない。
アトリエの先生は、寂しそうだった。過労で倒れてから右手に麻痺が残り、生活に支障をきたしているらしい。「これからどうやって生きていけばいいか分からない」と、軽く笑いながら話してた。先生は、弱いところなんてみせないものね。
久しく集まった生徒達と、精一杯の笑顔を作って、写真を撮って残す。その時の先生の、嬉しそうな顔。もうここにはいない人のことも、きっと目に入っているだろう。
例の男は、酒癖が悪くて、暴力的。自分の中で暴れ回ろうとする獣をひた隠しにして日々を過ごす。体格も良いので怖くて近寄り難い。でも、何故か嫌いにはなれない。人はみな、自分ではどうしようもない性分を背負って生まれてきた。そんな自分を一生持て余す。
あれ。仲良くなれると思っていた人に突然無視された。好きだと言ってきたのは、あなたのほうだったのに。

嫌だ、嫌だ。人が嫌い。嫌だ、嫌だ。孤独になるのは。仕方がない。交流、交流。ほんの些細な思い出作り。くだらない、汚れまみれで、人間臭い、誰からも見向きもされない、私だけの特別な思い出。

足の親指の巻き爪治療が順調に行って、自転車に乗るのも快適になった。自転車を購入してから、一度、私はバランスを崩して盛大にずっこけたのだ。転んだ先にあった塀に顔をぶつけて傷ができる。通りがかった優しそうな男性に声をかけられるが、笑って誤魔化す。全く大丈夫ですから。
家に帰って転倒したことを母親に話すと、すぐに自転車専用の保険に入る手続きを済ます。「でも、いいのよ。そうやって慣れていくんだからね。」と微笑んでくれる。

お母さん、ごめんね。馬鹿な娘でさあ。

今日も昨日とさほど変わらない日常。雪が降るようだけれど、暦の上ではもう春の時期に入っている。またたくさんの桜がみれるだろう。母親は、満開の桜を窓から眺めることのできる病室で私を初めて抱きしめた。他者と関わるための心だけしか、私は持たずに生まれてきたはずだ。そう確信に満ち溢れた、復活のときが巡ってくる。

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