下町の温度

雑多な下町に住んで10年は経った。
小学低学年の頃に親の都合によって離れていた時期が数年あったが、高校に入る頃、結局この街に舞い戻ってきた。
決して治安の良い場所ではないし、住んでいる場所が複雑なだけに、人に住所を教えると怪訝な顔をされることは多いのだが、自分は自分でこの街のことを気に入っているので文にしたくなった。

ここでは、ぷらぷら散歩をしても、ベランダから外を眺めるだけでも、いたる場所で洗濯物が干してあるのが目に入る。
ぽーっと眺め、その奥の窓を通って、息をして生活をしているであろう人々の気配を感じ取ろうとする。
なんとなく、それだけで安心感が胸に広がる。私たちがこの狭い家の中で生活を続けていることがひとつの共同体のように感じられて嬉しい。

閑静な住宅街も、見る分には嫌いではないのだが、住むことになったら息が詰まる気がしてくる。あまりにも静かな場所、人の気配がほとんど感じられない場所は苦手なのだ。
この街を離れていた時、住んでいたマンションの窓からは、広い真っ青な海を見渡せるうえに、日が登る頃の真っ赤な太陽をいくらでも眺めることができたが、一週間もすると見慣れてしまった。

世界の沢山の美しい景色をこの目に焼き付け、放浪しながら過ごすのもいいなと思いながら、一方で、遠くに行かずになんの変哲もない下町で一生を過ごすことになっても後悔はしないのではないかとさえ思えるのだ。

下町には色々な国籍の人が住んでいる。小学生の頃はそれが当たり前だと思っていた。友達の家から漂う、鼻につんとくる異国の調味料の香り。片言の日本語で挨拶をしてくる近所に住む友達のお母さん。ドレスのようなフリフリの洋服を着て登校してくる、肌の浅黒い女の子。
近所のコンビニで働く従業員は、ほぼ全員が外国人だ。日本人よりも真面目に働き、謙虚な人が多い。彼らはこの日本で働きながらどんな想いで生活しているのか。
今は自粛モードになっているから静かな方だが、夜には下品な笑い声が響き、口煩い喧嘩の声が聞こえてきたりする。私はそれに若干呆れながらも内心人間らしい部分に癒されているのだ。
近くのオンボロアパートには、独り身のおじさんばかりが住んでいて、会話こそしないが、時々目が合うと軽く御辞儀をして挨拶をする。このアパートには野良猫が住み着いていたり、ツバメが勝手に巣を作っていたりするので、おじさんが無言で指を差して教えてくれる。

ここに住んでいれば心細さを感じる隙が無い。みなが思い思いの生活を続け、誰も干渉したりしない。自由でいて、懐の深い地域だと感じる。法に触れたら警察が飛んでくるだけで、あとはなんでもありなのだ。
もし私がこの街を離れるようになったとしても、私は下町情緒溢れるこの場所のことを一番に心に留めておくような気がする。

実際、遠い日に遊び回った幼馴染はみなこの街から離れているらしい。知り合いのような人を見かけたことがない。(すれ違ったとしても、気付いていないだけかもしれないが)
登下校をしている小学生達の群れをみて、確かに私もその一員だったことを思い返す。
何もかもみんな一緒だった。垣根無く仲良しで密接していて元気だった。
もしまた縁あって再開することがあるのなら、あの時と同じように変わらない笑顔で手を繋いで喜び合うことを夢想する。

私の最近の興味関心が、どんどん大衆に向かっていくのを感じている。ほんの少し前までは、誰とも違う自分の存在を顕示しなければ生きてはならない気がして、特別になれないことに焦りを感じていた。けれど「当たり前の日々」を当たり前のように過ごせる奇跡について想いを巡らすようになった。
特化したものなどない、普通でいてどこか歪な私のことも、ここでなら長く向き合いながら持て余しても、誰も文句を言わないだろう。
身近にあるのに、勝手に毛嫌いしていたものの魅力について知るとき、自分の無知を痛感する。誰もが必ず共感できる存在は、いつも何も言わずに楽しく私の周りを駆け巡っているような気がするのだ。それはいつも私の心を温め軽くしてくれる。

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