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知覚を再編集するために

絵を描いた。
最近だとAI絵画が話題に上がる。

このトップの絵を見た友人がAIを疑う。
それと同時に新しい知識が累積した。

なぜ趣味に没頭するのか、
なぜ多趣味なのか、
日常生活で絶え間なく考えている。
その中、
先のような知識の累積を経て思う。

知覚を再編集するためだと。

以前、
趣味多さや深さは孤独であることの証拠だ、
と述べた。
確かにそれもそうだとは思う。
加えて、
物事の捉え方が変化する、
つまりは全人格的変容が起こるとも思う。

新しいものを得るたびに、
それまでの世界が異なって見える。

運転に慣れた後の道路の見方。
数学の理論を理解した後の数字の並び。
AI絵画の存在を知った後の他人の絵。
何においてもそれまでの見方とは異なる。

こんな知覚の変化が、
趣味に触れる所以なのかもしれない。

そしてまた、
趣味の中で様々な作品に触れること、
それすなわち、
他者の人生を享受することなのかもしれない、
とも思う。

まだまだ青い人間ではあるから、
他人の機微に敏感になる節はある。
けれど、
比較的人に対して寛容である気はする。
もちろん生い立ち次第で、
自然と大らかな人間はいる。

ただ、
私は揺らぎを経て寛容になったのだろう。

色んな作品に触れ、
その中に描かれる生涯。
十人十色の日常。

言い換えるならば、
作品は他者の人生である。

映画にしろドラマにしろ漫画にしろ、
ラジオや音楽だって、
他者の人生を享受している。

その享受してきた分だけ、
「受け止めよう!」という心構えではなく、
心の底から誰をも置き去りにしない、
包み込もうとする精神が自然と宿る。
そんな気がする。

もちろん完璧なわけではないから、
やはり受け入れられないものもある。
けれど、
それまた他人の人生を享受する中で、
知覚の再編集が行われるかもしれない。

決して趣味だけではない。
人間と接することでも、
やはり感じ方は変わる。
私が気にしてしまう他人の機微も、
いつぞやかには変容しているかもしれない。

何のために趣味に触れ、
何のために色んな人と関わるのか。

無意識に自分自身を再編集するためなのかもしれない。

そう思うようになったのもまた、
知覚の再編集である。

そういった意味では、
このnoteの記事そのものが編集過程なのかもしれない。

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