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「小説 名娼明月」 第58話:吶喊(とき)の声

 強からずといえども、敵は山賊の十余人である。阿修羅のごとく斬り廻り、監物を斬り倒し、管六の首を刎ねておるうちに、金吾も全身に十余箇所の手傷を負うて、頭から足まで血が滴っておる。なお斬りまくり、追いまくるうちに、数個の敵の屍体は、樹の根や岩の間に横たわった。ただ自分が一人、一面の血潮の中に、血刀(ちがたな)提げて突っ立ちたる金吾は、目差す敵を討ち果たせし喜びと、敵から受けし深傷(ふかで)とのために、いまままで張り詰めし気が一時に緩んで、ぐったりと草の上に倒れた。
 このとき、ここの山越えをして通りかかった一人の百姓がある。今宿在(いまじゅくざい)の百姓、太郎右衛門(たろうえもん)の忰(せがれ)、太郎兵衛(たろうべえ)と云って、博多までの用達しに、一番鶏に宅(うち)を出た。暗い山路を提灯の火に照らして、ここまで来ると、この騒ぎである。
 逃げ場を失い、がたがた振るって笹の茂りの中に隠れ、この騒ぎを窺(のぞ)いていたが、金吾が監物等二人を斬り倒す段になって、とうとう堪らずに逃げ出し、岩の角や高い崖を転んで、ようやく下の通りに出ると、足も腰も立たなくなって、道端に倒れた。

◇◇◇◇

 御笠の里、観音寺に天女を見たるお秋は、ひとまず肥前龍造寺の城下に入り込み、隈なく探し廻ってみたれど、去年中国辺の浪人が来ておったことがあったというばかりで、今はどこに行っているか、またそれが果たして金吾であるかどうかさえ判らぬ。
 今度こそは、夢のお告げのままに西の方に行ってみようというので、さらに博多の方へ引返し、姪の浜に一夜を宿り、翌朝、雪より白い霜を踏んで、姪の浜の宿を立ち出で、西に向かい、幾世松原の中央(なかほど)まで来た。
 すると、そこの道端に、百姓らしき若者が臥(ね)ておる。酔感(よいどれ)かと思えば、そうでもないらしく、お秋を見るや、手を挙げて招き、さも苦しげな呼吸(いき)を吐(つ)いて、

 「水を… 水を…」

 と云う。
 急病人と思ったから、お秋は附近の小溝に駆けつけ、厚く結んだ氷を叩き割り、水を手拭に含ませるや、元のところに飛んで戻り、百姓の咽喉(のど)に水を滴り込ますれば、百姓は初めて正気付き、胸撫で下ろして、幾度かお秋を拝んだ。よほど嬉しかったものと見える。
 お秋は、なおもいろいろと、その百姓を劬(いたわ)ってやり、

 「途中のご病気で、さぞご難渋でございましょう。幸い私に用意の薬がありますから」

 と言って、薬を取り出そうとすれば、百姓は手を以って慌しくそれを押し止め、ようやくその場に起き直った。

 「いやいや、薬には及びませぬ。病気ではありませぬが、途中で大変な目に逢いましたる驚きの余り、この始末でありまする。
 そなたも、これから向こうへ行かるれば、大層恐ろしい目に逢われまする。早くこれから道を引返したまえ」

 と顔色を変えてお秋に薦める。百姓の言うのが偽りでないことは、その顔色でも判る。こう聞いてみれば、お秋も気掛りである。また気味悪くもある。

 「一体、それはどういう次第で?」

 と訊けば、百姓は、なおも恐ろしげに、後振返り、身を振るわせながら、語り出した。

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