見出し画像

市場性とアート性の境界を彷徨う

「もう愛していない。心から軽蔑するわ。」
「なぜ軽蔑する?」
「変わってしまったのはあなたよ。理由は死んでも言えない!」

1963年に公開されたフランスの映画監督ジャン・リュック・ゴダールの映画「軽蔑」。

この作品は、映画脚本家であるポールと妻のカミーユの夫婦関係が、ポールに脚本の仕事を依頼したアメリカ人映画プロデューサーであるジェレミーとの関わりの中で、瞬く間に冷め、破綻していくストーリーを描いている。

アート色の強い描写を通じて、一見すると、よくある男女の三角関係を描いているかのように思えるが、妻に対しても、映画制作への向き合い方に対しても、「確固たる自分の主張」を持たないポールへの痛烈な批判が込められているように伺える。

面白いのは、ゴダール自身の反商業主義的な映画制作の姿勢を、作品の中のカミーユの役割に投影しているかのように解釈できる点である。主体と客体の逆転が起きている。当時のヌーヴェルヴァーグ運動の潮流の中で、それまでの旧態依然としたハリウッド商業映画に対するゴダール自身の「軽蔑」を感じさせる。いわば、既存の映画業界のあり方に対する批判精神を、映像・音楽アートを媒介にして、メッセージとして打ち出しているかのような空気感が滲み出ているのである。

私たちは歴史上の偶然で形作られてきた資本主義市場経済の枠組み・ゲームのルールを前提として、生産活動・消費活動を行い、日々生活を営んでおり、各個人の思考様式や行動様式は功利主義的な考え方に規定されている。この枠組みにおいては、より多くの人々が求めている財やサービスを提供することに価値がつき、富める者がより早いスピードで資本を増殖させ、物欲・金銭欲・承認欲求を始めとする人間のあらゆる欲求を満たす形で、その運動を駆動させ続けている。

会社組織では市場競争を勝ち抜き、利益を追求するため、各個人は期待される機能・役割を全うすることが求められ、個性(アート性)は一定排除される。モノづくりの世界の一部では、低コストで商品の大量生産・大量消費を可能にするため、製作者の世界観を表現する媒体としては扱われず、アート性が削ぎ落され、大衆向けの画一的な仕様が採用される。そのように、市場主義の影響でアート的なものが排除されるという例は、良くも悪くも至る所で存在していると言える。

市場性とアート性は、サウナ水風呂的な快楽のように相互補完する関係を持つことがあるが、異物として水と油のように交わらない場合もある。

興味深いのは、人々の期待・ニーズ(市場性)を無視して、製作者側が消費者側の意識や価値観を作り変えることで、大きな価値を生み出すケースがあることだ。

フランスの芸術家ドュシャンは、1917年にニューヨークの美術館にトイレの便器をアート作品として持ち込み、それまで美術館が持っていた「美術館ではこういう作品を展示するべきだ」という既存の価値観を塗り替え、現代アートの元祖としての地位を築いた。

「泉」(ドュシャン)


既存の枠組みの「外部」に目を向けること、そして今当たり前と思われている基本設定をハックしていく姿勢こそ、個人にとっても社会にとっても、非連続で大きなインパクトを生み出すことに繋がるのかもしれない。そのような示唆が浮かび上がってくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?