Happy lostday

わたしのお家はどこですか?

どうも。すっかり迷子になっていた瀬戸内種です。
あっちへふらふら、こっちへふらふら、どちらへ向かったものかとしばらく途方に暮れておりましたが、今晩にわかに周りがはっきり見えるようになって、なんとかそれらしい道跡に戻ってくることが出来ました。

なぜ急にそんなことが起きたか?どうやら私は歳を取ったらしいのです。
なぜ歳を取ったことがわかるのか?これは簡単です。なにも一年中、日付を勘定している訳ではありません。ただ、一年の中で最もお天道様が長く空にいらっしゃる時期、それが私が歳を取る合図なのです。
ではなぜ歳を取ると、いろんなことがはっきりわかるようになるのか?これはいまいちわかりません。ただ、多くの年寄りがみな一様にそんなことを呟いているので、きっとそんなものなのでしょう。

ところで、毎年初夏の晩に、私と一緒に歳を取る者がおります。
彼は近頃、「さんずい」がなんのかんのと言い出しました。潤んだ瞳で茫漠の海原を注視し、誰とも決められぬ女性への想いに沈み、舌で"h"を演奏する活きの良い若者たちにより添っているのだそうです。もはや正気の沙汰ではありません。
ただなぜか、そんな彼の湿った喉の震えは、澄んだ響きとなり、今この文章を書く私の腕に沁みるのです。sea, she, sea, she, her, her, hers.....



失われた"h"

花びら はらはら
まるで僕らは初めから
全てを失うために生まれたみたいだな

                  『LOST』後藤正文

大学でイタリア語を学び始めたときの話。まず「発音はほとんどローマ字読みだからすぐ読めるよ〜」みたいな基礎的な決まりごとを習う。実際初見でもそれなりに読める。そのあとに教えられるのが、"avere"。これは英語の"have"に相当し、「持つ」と言う意味を中心に幅広い動作・状態を表す動詞であるのみならず、近過去(イタリア語に複数ある過去時制の中でも一番よく使うやつ)や複合時制でも用いられる、めちゃくちゃ重要な単語である。
イタリア語は動詞の活用が激しい。指揮者の言葉を借りれば、「三水でもって、舌を用いてみる」ことこの上ない言語だ。この"avere"の活用表を見ると、ho, hai, ha, ,,,と始まっている。なるほど、原形の時はわからなかったけど活用形からhaveとの繋がりが見えるな...などとしたり顔をする。発音はローマ字読みね、よっしゃ楽勝。さあ先生、発音練習ちゃちゃっとPer favore(お願いします)!

「オ! アーイ! ア!」

・・・・・・・!?

「ho ! オ!hai ! アーイ!ha! ア!」

そう。イタリア語において、"h"は「ほとんどローマ字読み」の「ほとんどじゃないほう」に属する。"ho"は「ホ」ではなく「オ」となり、hは発音されない。背高ノッポな彼女たちはその名を読み上げられることなく、足腰強そうな母音たちの前に所在なげに突っ立っているのである。しかもよりによって、最頻出単語の、先頭で、連続して。
その後、イタリア人の友人たちに聞いたところだと、彼らに取ってhの音は聞き取るのも発音するのも難しいようだ。喉から漏れたこすれのような子音を、音としてなかなか認識出来ないらしい。実際英語を話す時など、hの発音に苦労するとも言っていた。

そう言われてみれば、ひどく曖昧でかすかな音である。
端、灯、布、屁、穂。と口にしてみたその刹那、風に吹かれて消えていきそうだ。
「花びら、はらはら」とでも口ずさんだ日には、もう僕らは何かを失い始めている。否、それは「初め」からなかったのかもしれない。

この星を覆い尽くし、僕の身体すらも包み込むかのような圧倒的な大海に、失われた"h"をぽちゃんと投げ込んでみれば、世界はみるみる喪失の彼方へ運ばれ、「彼女」だけが取り残される。三人称とは、「ここにいない人」のこと。そう、考えてみれば彼女だけでなく「彼=he」も、あらかじめ失われていたのだった。

そして、ふと気づく。
「ここにいない人」を語る間、僕らはなによりも、その人にこそ、
心を奪われているのだと。


強くて、齢

小さな頃、誕生日は大きなイベントだった。ろうそくの立てられたケーキ、プレゼント、祝福の手紙。何より、自分が少しでも大人になったという実感。毎年「あと○○年でお酒が飲める!」「あと○○年で結婚できる!」とカウントし、はしゃいでいた。その二つが自分の中で重要な「おとな」のイメージだったのだろう。前者の権利ばかりを過剰に行使し、後者のカードは未だ切る気配がないことは二十年前の自分自身に面目無い。ごめんな、ひょうきん少年。

だんだんと、大人に近づく喜びが、大人になってしまう焦りへと変わっていた。そしていつその「大人」になったのかもわからないまま時だけは進む。来し方を振り返ってみれば、回り道、間違い、ガラクタや無駄なもので溢れかえっている。そのくせ、その全てを失う瞬間にだけは最短距離で向かっているという皮肉。

ならば、失い、迷い、破れ、弱いながらも「よわう=世を這う」ことが、行く末に見出すべき在り方なのかもしれない。そもそも自ら勝ち取った生ですらないではないか。I was born, 受動的に産み落とされた私を祝わなくても良い。本来の主語たる母に、父に、祖先に、歴史に、敬意を。そして、母との臍での繋がりを断たれてこの世界に元気よく挨拶したあの日に、祝福を。あの日私たちは、それまでに胎内で享受した生物の進化の歴史を喪失して、一個人としての些細な歴史を始めた。いつか、それらを再び失うために。

花びら はらはら
まるで僕らは初めから
全てを失うために生まれたみたいだな

今なら 未だ未だ
そうさ 僕ら
この場所から 全てを失うために
全てを手に入れようぜ ほら
                   『LOST』 後藤正文

愛を込めて。
喪失の頭文字とともに、祝福を。


Happy birthday to you.

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