深淵。こごえる。

それでもわたしは人を嫌いになれなくて、愛したいと思っている。

くるしい人を抱きしめたくて、だれかを抱きしめることで自分を抱きしめようとしているんだろう。
だれかを愛することで、自分を愛したいんだろう。

心配されることがうれしくて、無責任に応援されることがきらいで、あまのじゃくのようで一貫していて。

ものごとを感情で考えて失敗することが多いけど、そんな自分はきらいじゃなかったりもする。

「致します」を「いたします」と書くことを「ひらく」と言う人がいた。ひらがなにする=ひらく、らしい。
わたしの文章がむすんでひらいてしているのは、きっと人格がくるくる入れ替わっているからだと思う。漢字の「私」とひらがなの「わたし」がいるように、最近は感じている。

それもすべてきらいだったけど、すべては自分自身の生存戦略で、意味はないけど理由はある。
わたしがこうなったのも、あの人がああなのも、すべてに理由があり経緯があり、各々の生存戦略。

目的もない。ただ産まれたから生きているだけ。「なんのためにいきているの」「そんなものはだれにもないよ」
それが救いだったりもするわけで。使命なんてまっぴらごめんで。
こうなっているのは運命でも誰かのせいでもなくて、自分がえらんだことだから。たとえ仕方なくであったとしても、選んだのは自分。

だれかを愛したいと思っている。
死ぬことと愛することは同じかもしれない。同じくらい尊い。
何かから逃れるために死ぬのではなく、幸せの絶頂で勝ち逃げしたい。きっと、だから「まだ死ねない。」

他人に苛立つのは、自分以外も被害を被ったとき。
「おれの顔に泥を塗りやがって」というエゴ。
エゴイストでナルシストで、でも自分が嫌いで人間不信。

いつからか「救われたい」と思わなくなった。
わたしのことを救うのも殺すのも私自身だ。
なんて言いながら、それでもやっぱり「愛されたいなぁ」と思っている自分がいる。
バカだなぁ。

ハロー。ハロー。きこえますか。

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