松本人志問題にざわつくメディア業界ー2つの疑問点ー(文・沖田臥竜)

メディアには超えてはならない一線が存在する。その一線を超えれば、これまでメディアが作り上げてきた公益性すらも揺るがしかねない。
もしも人を陥れることにメディアが加担してしまった場合、取り返すがつくだろうか。知らなかったですまされるだろうか。だからこそ、記事を作る時には丁寧に取材を進めなければならないのだ。
その過程には、「たかだか週刊誌が!」「たかだかネット記事が!」と罵られることもあるだろう。だからこそだ。片側の主張だけで善悪を決めてしまい、偏った記事を作ってはならないのだ。誰に理解されなくとも、世の中に伝えなければならないニュースがあれば、ペンに矜持を宿しジャーナリズムを追及していかなくてはならないのだ。

だが、メディアはあくまで司法ではない。本来ペンによって社会から、その存在を抹殺するような役目までは担っていない。
そもそも公益性というものは、どちらかに偏って報じることで社会から対象者を抹殺するような役割ではない。 

何らかの社会的制裁を与えるのは司法の役目であって、メディアの公益性とはあくまで客観的に見て、公正な立ち位置で判断し報じることである。それがこれまでメディアが培ってきた使命なのだ。

昨今、行き過ぎた報道をスクープなどといって、事実か否かも分からぬ状態の中で、人の人生を実質的に崩壊しかねないような記事が散見される。
はっきりという。週刊文春も落ちたものである。それは売上の部数を見ても歴然で「紙は売れない」というのは、それまで積み重ねてきた怠慢でしかない。

7月10日、八重洲総合法律事務所が松本人志氏の代理人を務める田代政弘氏他2人の弁護人と連名で、「週刊文春電子版」掲載記事についてーと題し、厳しい抗議文を掲載している。

これは同日に週刊文春電子版で配信されたダウンタウン松本人志氏の記事についてのことだ。
田代弁護人サイドは、週刊文春が掲載したダウンタウン松本人志氏の記事について、真っ向から否定してみせている。事実はもちろん分からない。

だが、文春の記事にあった通り、A子さんを法廷に出廷させない工作を松本人志サイドがおこなっていれば、論じるまでもなく大問題だ。好き嫌いの次元ではない。
しかしそれは本当に事実だったか否かは、慎重に判断しなければならない。文春の記事を読んで、首を傾げたくなったのは私だけではないだろう。
八重洲総合法律事務所に届けられた匿名の手紙。あまりにも出来過ぎていないか。

八重洲総合法律事務所から出された反論文にも記載されているが、一連のA子さんが興信所に尾行されている件について、匿名の手紙2通が届けられている。それはA子さんの動向を詳細に記した内容の手紙だ。

理由はどうであれ、訴えを起こした裁判相手は芸能界の頂点に君臨するダウンタウンの松本人志氏だ。その松本人志氏を相手に、文春がA子さんの証言を記事化に踏み込み、少なくとも現時点において、松本人志氏を芸能活動休止へと追い込んだのだ。
対する松本人志サイドは、文春の記事で名誉を毀損されたとして、発行元の文芸春秋相手に損害賠償などを起こしている。

真相の話をしたいのではない。その渦中にいるA子さんの動向をそこまで詳細に知る人物がなぜ存在しているのか。そこに言及したいのだ。否、そこが争点ではないのか。
そしてA子さんからの依頼で文春の記者が現場に出向けば、ピンポイントで探偵を特定できたというのである。
文春の記者はそんなことまで出来るのか。だとしてもだ。身の危険を感じているA子さんから、身辺を確認して欲しいという依頼があったのだろう。文春編集部はその時、記者を現地に派遣するだけではなく、当局に通報を入れ、連携をとっていたのか。

まだ探偵だったから良かったものの、もし暴漢だったらどうするつもりだったのだ。身の危険をA子さんは感じていると言っているのだ。
記事化することが最優先事項か。それとも文春の記者たちは、武力にも対応できる凄腕たちの精鋭揃いとでも言うのか。

すまないが、私の一般的な解釈ならば、普通は警察に通報する。
私自身ならばしないが、普通ならばまず身の危険を感じたのならば、警察に通報するのが常識という認識を持っているし、取材対象者を守るのは編集部の務めだろう。

万が一に備えて警察とだって、連携をとろうと考えるだろう。記事化したことで取材対象者が身の危険を感じているというのだ。呑気に記者だけを現地に派遣させるようなことを私だったらしない。

ましてや現地に行けば、不審な人物らがいたのだ。不審者の動きを見張っている場合か。記者として緊張感漂う場面だと思うのだが、動向を離れた場所で確認しながら、写真を撮っている場合なのか。
もし何か取材対象者の身に、アクシデントが生じればどうするのだ。
この時点では、まだ探偵だと判明していないのだぞ。何もなかったから良かったものの、何かあったらどう責任をとったのだ。

もしかして、何も起こりはしないとその風体だけで一瞬にして見破ったのか。それならば大したものである。だが、それを客観的に見た時に「さすが文春だ!」とはならない。
「それはおかしくないか…」となるのが一般的ではないか。

それとだ。文春の本誌とは文藝春秋である。文春の記事が原因で、発行元の文藝春秋が訴えられているのだ。是が非でも松本人志氏との裁判は、負けられない裁判のはずだ。妨害されているのならば、それこそ裁判所で証言するべきではないのか。戦術として手の内を晒してどうするのだ。もう一度言う。本誌が訴えられているのだぞ。

それらを含めて、「おかしい」と違和感を感じるのだ。仮にだ。手紙を出した匿名の人物が特定された場合、その違和感は解消されたりしないだろうな。

文春編集部からしても、文面通りに受け取れば、匿名の主はえらく不届きな悪いヤツのはずだ。
A子さんの動向だけでなく、濡れ衣まで着せてきているのだ。それはもちろん当局に相談なり、捜査の依頼なりを申し出ているのだろうな。匿名の送り主の筆跡は公開されているのだぞ。その手紙についても被害届の相談をするべきではないのか。
全てのスタートは文春編集部が記事化したことから始まっているのだ。それくらいの責任義務は存在するのではないか。

尾行のスタートは匿名の手紙から始まっているのだ。それは関係ないかのように、否定するだけで問題視しないのは、あまりにも杜撰すぎやしないか。

SNSの発展で、週刊誌は軒並み部数を減らし生き残りをかけた戦いが始まっている。それはネット媒体もテレビも同様だ。だからこそ、各メディアはジャーナリズムを真摯に追求していかなくてはならないはずではないのか。

真実がわからない、真相がはっきりしない中で、間違った方向に進み、人の人生を社会から抹殺するのがメディアが担う役目ではないはずだ。

(文・沖田臥竜)

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