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消費者が「任せている」食べものの世界。だからきっと、消費者には心がない。|生きる行脚#10@消費者

 僕は大学で学んでいることや「大学」という環境、自分の将来のことなど、いろんなことについてとにかくもやもやを感じていた。
 そんな中REIWA47キャラバンでの株式会社ポケットマルシェ(現:株式会社雨風太陽)のCEO、高橋博之さんとの出会いをきっかけに、大学3年生(2021年度)の1年間を休学し、日本各地で一次産業を生業とされている方の隣で一緒に作業をさせてもらう旅、「生きる行脚」をすることを決めた。
 生きる行脚とは、一次産業を生業とされている日本各地の漁師さん・農家さんのところに住み込みで1週間~1か月ほど滞在し、漁師さん・農家さんが普段やっているようなことを隣で一緒にやらせてもらう修行の旅である。
一次産業という産業のなかで物理的に命を扱ったり命と向き合ったり、一次産業を生業とされている方の生き様などを通して「生きる」とはどういうことなのかを感じたり、考えるため、2021年の3月8日(火)から2022年の3月28日(月)までのおよそ1年間、この「生きる行脚」を実施した。
 このnoteでは、この1年間で日本各地の漁師さん・農家さんのところへ行かせていただいたときに僕が見てきた景色や、僕が感じたことや思ったこと、考えたことを綴っている。


 豚肉はおいしいし、安いから、僕は結構な頻度で食べる。きっと、多くの人の食卓にも頻繁に登場し、みんなが何気なく口にしている、僕たちの食生活からは切り離すことのできない食材だと思う。

 そんな親しみのある食材なのに、豚という「生き物」が豚肉という「食べ物」になるまでの過程を多くの人たちは知らない。屠畜(家畜を食肉・皮革などにするため殺すこと。)は、進んで見たくなるようなものではないから、消費する側はその過程から目を背け、江戸時代の身分制度が存在していた頃から特定の人たちによって人目につかないようにして行われてきたという歴史がある。

 僕は今まで、スーパーに並んでいるきれいにカットされてトレーに入れられたお肉を見ても、それを食べても、それが牛や豚や鶏という「生きていたもの」だったという実感がどうしてもなかった。だから、生き物がお肉になるまでの過程を見たいと思い、豚の食肉処理施設で研修というか、見学をさせていただいた。

僕たちは、「任せて」いる。


 エアシャワーを浴びて解体ラインに入ると、酸っぱいというか、苦いような、今までに嗅いだことがない豚特有の臭いに包まれた。
 屠畜・解体の大まかな流れは、豚を失神させた後、首の下にナイフを入れ心臓の下にある血管を切って放血を行う。その後、殺菌や残った毛の処理のためにガスバーナーの炎にあて、足や頭を切り落とし、内臓を取り出して枝肉ができる。
 豚が枝肉になるまでには、詳細には33段階もの工程があり、僕はその工程すべてをじっくりと見させてもらった。

 麻酔をかけられた豚の首元にナイフが入れられていくのを見たとき、解体ラインに入ったときは鼻をつまみたいと思っていた臭いは、どうでもよくなった。目の前で命が終わる瞬間を見ていると、その他の感覚とかそれまで考えていたこととかが全部シャットアウトされて、ただそこにある「命」に惹き込まれ、そこにしか注意が向かなくなるような感覚だった。

 屠畜を見る前は、「残酷」とか「かわいそう」とか、「命ある生き物を、工場みたいなところでモノみたいにして扱うのはどうなんだろう。」とか思ったりするのかな、なんて思っていたけれど、実際に屠畜の様子を前にすると、まったくそんなことは思わなかった。


 真剣な表情で豚を捌いている人たちがいて、その人たちの手によって目の前で豚という生き物が少しずつ形を変えてお肉へとなっていく。
「豚は、こうやって豚肉になっていくんだな。そして、他人がやりたがらないこの仕事をやってくれる人がいるから、自分は豚肉を食べられているんだな。」
と思うだけで、
  「消費する側は、食べるために必要なことを任せているんだな。」
と気づかされただけだった。

 僕はこの、大量消費のシステムの中で生きている。それに豚肉は好きだし、これからも豚肉を食べて生きていくと思う。
豚肉になってくれた豚と、豚を捌いてくれる人がいるから、僕は豚肉を食べられている。だから僕は、何も言えなかった。

心がないのは、本当は…


 今回の屠殺・解体の仕事もそうだけど、一次産業とか、食べ物を作ることに関わる仕事というのは、あえて言葉を選ばずに失礼を承知で言わせてもらえば、「生き物の命を奪う」とか「人間が食べるために生き物を育てる」という、命を相手にしている仕事だと思う。
 
そんなこともあって、それを傍目から見た人に、「残酷」とか「野蛮」とか「荒々しい」みたいなイメージを持たれていることがあるように感じるときがしばしばある。

 「やってること」だけを見ればそう思われてしまうものなのかもしれない。だけど実際に食べものを作っている現場に足を運んでみると、

      「本当に残酷なのはどっちなんだろう。」

(白黒つけたいとかいう感情ではなくて。)という違和感を感じるというか、頭に「???」が浮かぶというか、

           「お前はどうなんだ?」

と問いかけられているような感覚になるときがある。



 解体ラインで作業している人の表情とか眼差しは真剣で、「命を扱っている」という少し重々しい雰囲気があった。

 東北には、
「これ量が少なくて出荷できねがら、全部海さ捨でるしかねんだよ?もったいねえべ?」
と言って悲しそうな表情をしながら、やむを得ず既に死んだ魚を海に還していた漁師さんがいた。

 片や自分たち消費する側は、何事もなかったかのようにものすごい量の食べ物を捨てている。

 平気な顔で食べ物を捨てる消費者より、食べものを生み出して、痛みを感じながらも命と向き合っている人たちの方がよっぽど心があるんじゃないかな、と思った。


         豚を捌く人と、豚肉を食べる僕たち。

       僕たちは、豚肉を食べ残していないだろうか。

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