ナグです。
昨日の記事で「言葉の定義」ということについて、僕なりの考え(特にスピリチュアルな分野において)を書き綴りました。
何度か読み返していく中で、やはり“言葉の不完全さ”というものを感じてしまうのです。まあ、これは私たち人間が言葉によってコミュニケーションを取る以上、仕方ないところなのだと思いますが。
僕はよく、いろいろな場面で「逆になっているんだよ。」ということを口にするのですが、それは本当にさまざまなところで気づくことができるのです。
順序が逆になっていることで、精神的な安定をうしなってしまったりするし、対象の見方が逆になっていることで、うまくいかなくなってしまうこともある。しかし、ひとたびその「逆」になっているところを反転させることで途端に“流れ”が変わり始めて、好ましい変化へと移行することは意外に多いのです。
“単純(simple)だけど、簡単(easy)ではないんだよ。”
と、スピリチュアルなものの見方、視点を「反転」させることを伝える時に、付け加えるんだけれど。
昨日の記事において、言葉の定義の重要性を語ったのだけれど、そのなかで「手放す」と言う言葉が、“surrender & release”から来ていることを書きました。
冒頭の「言葉の不完全性」と言うことを感じたのは、その昨日の記事の中で、
「“現状を受け入れる、抵抗しない”という意味合いが隠れているのです。」
と書いているのですが、
『ちょっと待てよ…。』
と、思ったわけです。僕自身が「言葉は受け取り手によって、意味づけが違う」というふうに言っている以上、ここは補足を入れておかないと、というわけで今日の記事となるのですが…。
スピリチュアルな話は、まず自分の「内的な要素」を見つめることから、「自分の外側に“結果的に現れてくる”現象」への変化を観察する、というプロセスによって、自分自身の体験を通して、気づきを得ていく、というものなんですね。
この「内と外」という対比、今日の記事で掲げた表題の“光と影”という対比のように、私たちの暮らす世界には“対になることがら”に溢れている。
“現状を受け入れる、抵抗しない”というのは、何を受け入れ、何に対する抵抗を諦めるのだろうか?
実際、多くの人が自分を取り囲む“現実”を、つまり「外」の世界で起こるさまざまな現象を「受け入れ」て、「抵抗」することを諦めながら、そして、自分の「内」にあるさまざまな考えや感情を否定しながら生きているのではないだろうか?
いろいろなことについて、さまざまなひとの心配事や不安や悩みや、そう言った話に耳を傾けることが仕事柄多いのですが、「人/人間」の性質なのか?悩みを打ち明ける人の話を聞く時に、思うことがあります。
そして、ときどき僕はこのように言葉を返すのですが、
「あなたは今自分に対して、そんなふうに言うけど、あなたの友達があなたに同じような悩みを打ち明けた時、友達にそんなふうに言ったりするの?」
すると、その人は「ハッ」とした顔をすることがあるのです。
もう少しわかりやすく話すと、たとえば恋愛とかで、誰かのことが気になっていて、気持ちを伝えたいと思っていて、でもいろいろと怖さが出てきたり、自信がなかったりで苦しんでいる時に、その人は自分で言うんです。
『わたしが気持ちを伝えても、多分、彼/彼女には迷惑なだけだと思うんです。あんな素敵な人がひとりなわけないし、きっと付き合っている人がいるだろうし。諦めようと思うんです。』
友達が、恋愛で悩んでいたとして、その悩みを友達だから、とあなたに相談してきた時に
「あなたが告白しても、彼/彼女には迷惑だよ。誰かと付き合ってるに決まってるよ。無駄だから諦めなよ。」
と、言い放つのでしょうか?
『気持ちを伝えてみないと、わからないじゃない?“好きだ”って伝えたら、もしかしたら彼/彼女も意識するかもしれないし、そこから関係がよくなるかもしれないじゃん。応援するからさ、がんばりなよ。』
みたいなことを言うのではないでしょうか?
その友達のことが大切なのであればなおさら。でも、『自分』には、「無駄だから、やめておけ」と傷つかないための予防線をはっていくことを繰り返して、自分の思いを閉じ込めてしまう。そして、「自分自身」をも抑圧してしまう。
まるで、自分で牢獄に入って、自分で鍵をかけるようなことを人はしてしまうのです。
自分では自分の気持ちを否定し、その一方で外側(他者)に肯定してもらえることを期待してしまう、という状態におちいっていくのです。
自分にとって理不尽な出来事が起こった時、そのことに対して降伏するのではなく、自分の感じている気持ちや思いこそを大事にするのです。考えや感情に固執するのではなく、悩んでいる友達によりそうように、自分自身に寄り添ってあげるのです。
「そう感じるよね。そうだよね。」
自分自身が誰よりも「自分の味方」になることが大切なのです。
そして、「外」を否定することで自分を正当化するのではなく、
“自分にも、外(他者)にとってもより良い何かがあるかもしれない。”
という希望、可能性を求め、自分自身を「外」に向かって放つのです。
自分のことを受け入れ、認めていない状態のまま、他者を理解し、受け入れることはできないものです。
「自分は大丈夫だ。」
という心の在り方があるからこそ、相手に寄り添うこともできるし、包み込むこともできるのです。
つまり、“現状を受け入れ、抵抗することを諦める”というのは、自分の感情に対してであって、外側で起こっている出来事や他の人の振る舞いに対してではないのです。
「内側」を受け入れることが、先なのです。
僕が「逆」というのは「外」を受け入れて「内」を否定するのではなく、「内」を受け入れ、そして「外」に働きかける、ということなのです。
“自分らしく生きたい”
多くの人が、自分の生き方や在り方、現状の自分に満足がいかない状態で、いつか自分に満足できる時がくることを願いながら、日々を過ごしているように、時々僕は思う。
この“自分自身を受け入れる”ということ、自分の感情を「そのまま」みることの大切さをできるだけ誤解がないように、伝えてくれているものって、意外に少ないように思っているのです。
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