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「ジョジョ・ラビット」雑多な鑑賞めも。

映画「ジョジョ・ラビット」を観た。
わたしは映画は娯楽であるべきだと思っているので、作り手が伝えたいことをいかに汲み取るか、とか、回収できたフラグの数を誇る、みたいな野暮なことはせず、単純に楽しみたい。
とはいえ、ねちっこい性格のせいで、ココロに爪痕を残された作品のことは、ついつい深読みしたくなる。
「ジョジョ・ラビット」は、スクリーンの外から観るか中から観るか、だれになって観るかで全くベクトルの違うレビューを読むことができる、面白い映画だ。
オープニングでBEATLESの“抱きしめたい”がかかった瞬間、わたしは10歳だったころの背丈までグーンと縮んで鑑賞することに決めた。

本作は、タイカ・ワイティティ監督の母親がロシア系ユダヤ人のシングルマザーであることを知っているか否かで、“架空のアドルフ”の受け止め方が少し変わってくるかもしれない。(知っておくのが前提ではない)
少なくともわたしは、チャップリンの「独裁者」への気の利いた意趣返しかな、と感じた。(ホロコーストの実態を知らずに演じたことを恥じていたとか)

冒頭の方でヨーキーが口にした当たり前すぎる疑問
「ユダヤ人と僕たち、なにが違うの?見た目じゃ区別がつかないのに」
ヨーキーのこのセリフが物語をリードしていく。
ロージーによって隠し部屋にかくまわれていたエルサは、ゲシュタポの家宅捜査にあった際、大胆にもジョジョの姉になりすまして堂々と現れる。
そして、ロージーの活動を支えジョジョのお守り役でもあるクレンツェンドルフ大尉の咄嗟のウソで難を逃れた。
“見た目”ではユダヤ人だとわからない。
(終盤では、敵国の捕虜になりそうになったジョジョをクレンツェンドルフ大尉が「ユダヤ人だ」と指し、はおっていたユーゲントの制服を脱がせてツバを吐きかけ、解放させる)

後半のヨーキーの当たり前すぎる投げかけ
「いま、ナチスにいる場合じゃなくない?」
こどもなんてそんなもんだよね、と思った。
ボールがあるところに、こどもは集まる。
当時は多くの国で読み書きと同じように自国のために戦争に赴くことが勇敢な行為だと、こどもたちはすりこまれていた。こどもはいつも悪くない。
それが正しくてカッコいいことだと傾倒していった人たちをいったん肯定し、
笑い飛ばすことで、ゆるす。
パロるんならこのくらいやってよ、と。

BEATLESで始まりBOWIEで終わる物語。
(途中Tom Waitsの「大人になんかなるものか」がかかりますが、タイトルからはこども目線の曲のようだけど、実際は中年男性が老後を悲観して(年は取りたくね〜な〜、ハゲるし、年金とか税金とか夢なんかもてないよ)と憂いているのです)
そしてDAVID BOWIEは西側から壁の向こうの東の人々に向かって「HEROES」を歌った。
“だれだってヒーロー(のように献身的)になれる (生きているあいだの)たった一日だけ(だれかの幸せのためだけに費やす勇気がある)なら”
(ドイツ語Ver.の「HELDEN」なのがエモ)

ジョジョ・ラビット考
🐰“見た目”では区別はつかない
🐰目に視えない=“無”ではない
🐰なにがカッコいいかは自分で精査して選択できるのが自立
🐰愛が最強で筋肉は3番目に強い
🐰愛は痛い
🐰ワイティティ監督は母親を敬愛してやまない

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