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「掃除婦のための手引き書」ルシア・ベルリン著/岸本佐知子訳

事実をありのまま口にしてしまうと、不幸や不運が剥き出しの現実になってしまう。
そんな現実に蓋をしたり“ねじ曲げる”のではなく“変容させ”折り合いをつけることが、彼女にとって癒しだったのかもしれない。
この短篇集は、リマスタリングされたB面曲のコンピレーションアルバムのようだ。

「掃除婦のための手引き書」を読んだあとは“隙あらば自分語り”をしたくなりませんか、

小説の舞台となったニューメキシコは、わたしが大学を卒業した年から5年ほどつき合っていた同い年の”コックさん”と塩梅よく別れるために逃げた場所だ。 
手術で体内に置き忘れられたメスが時を経てレントゲン写真に映し出されたような、ありがた迷惑なような、雨の日に痛むシューゲイザー難聴のような、記憶のなかで懐かしさと痛みがマーブル模様を描く、そんな場所だ。

第一次結婚適齢期が訪れたころ、彼のいちばんの親友が紆余曲折のうえ意中のマドンナと結婚し、それから数ヶ月後には懐妊の知らせが届いた。
私たちはアンカーとして最後のバトンを渡された格好となった。
それが、自らを“結婚したくない男”と称していた彼が、求婚に至ったきっかけになったのだと思う。
ところが、わたしは彼とは結婚をするつもりは毛頭なかった。
彼が母親や特別なケアが必要な妹をとても大切にしていることを好ましく思っていたし、仕事への向き合い方も尊敬していた。 でも、結婚はあり得なかった。
当時のわたしは前髪アヴァンギャルドなサブカルOlive少女で、かたや“コックさん”はGuns N’Rosesのファンがち勢。
『市川実日子 Meets アクセル・ローズ』
デートの正装はが革パンと革のベストで、サングラスを“グラサン”と略すのをためらわない界隈の住人。
革ジャンはジャンルの垣根を越えてサブカル界でも“いきりアイテム”として取り入れられていたけど、革のベストを着た彼氏役とOliveモデルが“渋谷のシスコ坂でアシッド・ハウスの円盤探し〜”なんて特集、あり得ない。 アシッド・ハウスは“酸っぱい家”じゃない。

彼の友人たちがテープを張ってわたしたちのゴールを待ち構えている。
わたしは最終コーナーをまわり、最後の直線に…
差しかからなかった。
“結婚はできない” それだけを彼に告げ、アメリカにたった。
がっかりする友人たちに強がる彼をみるのが怖かったし、期待する周囲のひとたちを借金取りのように恐れた。
なにより、“結婚”が”恋愛“のゴールテープの向こう側に、トロフィーのように掲げられていることが受け入れられなかった。
だから、逃げた。
(つき合うだけならいいけど、アクセル・ローズと結婚はちょっとね!!)は、井戸に向かって叫ぶだけに留めて。

まずはサンディエゴに住む友人を訪ね、そこからレンタカーを借りてメキシコの国境沿いを独り、ニューメキシコ州サンタフェを目指してドライブ旅行に出かけた。 ブートのカセットテープを買い込んで。
どの店に入っても、いつMTVチャンネルをつけても、必ずかかっていたのがレニー・クラヴィッツだ。 当時のレニーはヴァネッサ・パラディと交際中で、サブカルと漢気が邂逅する唯一のミュージシャンだった。

ツーソンのサボテンだらけのハイウェイでは、キンキンに冷えたビールは5分もしないうちに人肌を超え、30分もすればテキーラの瓶は素手で持っていられなくなる。 そこだけオゾン層が破れているのではないかというほど、肌までチリチリに干上がったこと。

ニューメキシコがとても気に入って、何日かごとに街を移りながら2週間ほどをそこで過ごした。 いちばん長く滞在したのはアルバカーキだ。 スペイン語しか書かれていないメキシコ料理店で適当にオーダーしたサンドイッチの具が茹でただけの豆ぎっしりで、カッコつけで頼んだ微炭酸のミネラルウォーターをひどく恨んだこと。

ガソリン代を負担してもらう条件で、アルバカーキで仲良くなったバックパッカーのカップルを、その後のドライブ旅行の仲間に迎えた。 グランドサークルを3日間かけてまわり、最後はベガスのハードロックホテルにチェックイン。 レッチリの“靴下の衣装”をつけたマネキンがそびえ立つエントランスで、バカ丸出しのポーズばかり撮って、フィルム1本を無駄遣いしたこと。
一晩中カジノで呑んで賭けて明け方部屋に戻ったあと、大勝ちしたお札をベッドにバラまいて3人で強盗のように眠った。

記憶から抽出した事実を変容させて、思い出を真実に近づける。 再編集された過去はやさしい。 井戸が拡声器になって「つき合うだけならいいけど、アクセル・ローズと結婚はちょっとね!!」と、町内放送をすることもない。

ルシア・ベルリンの物語からは、熱を感じ、音が聞こえ、酸っぱい匂いが立ちのぼってくる。 ささくれだった柱を撫でれば棘が刺さりそうだし、風を吸い込めば砂埃で喉がイガイガするほどリアリティに満ちているのに、不思議と不快にならない。

サンタクロースは実在したほうが夢があるし、おふくろの味は美味しい方がいい。 “美味しい“や”好き” は、それを“知っている”ことで、懐かしさに紐づいている。 事実が真実である必要はないのだ。
彼女の手によって艶やかにリマスタリングされたエピソードに針を落とすと、“レコードがひっくり返されて“ 突然”B面“が始まり、思い出は可笑しくて愛おしいメロディーに転調する。 それが真実で良いではないか。

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