見出し画像

バレンタイン・ディ ②

「ごめんくださーい。この紙袋、郵便受けに入ってたんだけど、クララちゃんからよね」

双子のH部くんのおかあさんの声だ。
祖母と応酬を重ねる甲高い声が勝手口のドアからもれ聞こえる。
(うわぁ〜自爆…)
しつけに厳しい祖母のことだ。おつかいものを郵便受けに押し込んできたとわかれば、また50cmの竹尺で叩くに違いない。
“アンフェア”から“現場“に戻ったわたしは、“日没までに帰宅する“門限を破って更に罪の上塗りをするつもりかと自分に問いただしながら、いつのまにか小屋から出ていたポチの濡れた冷たい鼻と自分のそれをくっつき合わせ「わたしのより冷たいね」とひとりごちた。そして、ポチが「ぶぷひゅうっ」とくしゃみをしたのを合図に勝手口に向かった。

ところが扉を開けてみると家の中では予想だにしなかった修羅場が展開されており、わたしの断罪などうやむやになりそうな気配にガッツポーズをしたいくらいだったが、それは”子供のあどけなさ“で消えるほど小さな火種ではなかった。
祖母と叔母が大喧嘩の真っ最中だったのだ。
こたつのある居間には初めて見る巨体の男性が座布団を外して正座している。

「結婚式やらんって、どういうことぉ!!」激昂する祖母。
「浩一さんが、2人だけでハワイ挙式するって決めたんだってサ!」泣き叫ぶ叔母。

このあとわたしは階上に追いやられ、どのような話し合いがもたれたのかは知らない。声の大きな父の話し声でことの次第を再構築すると、
○巨体の男性(浩一さん)は叔母の初めての見合い相手で彼氏
○今日プロポーズされ、その足で家に連れてきた
○浩一さんの考えで、結婚式は二人だけでハワイで執り行う
○祖母は式を挙げないことにイチャモンをつけているようにみえるが、実際には浩一さんのご両親と同居することが気に入らないから結婚そのものに反対している(というのが父の見方)
○夕飯はバッテラが有名な東寿司の出前

階下から聞こえてくる声が静まったころ母が冷めた茶碗蒸しと寿司桶をもってきてくれたが、「お風呂はいいから今日はこのまま寝なさい」と言い置いてすぐに去ってしまった。

その翌日、2月15日から叔母は一重瞼になった。
それまでわたしは、栗色でツヤツヤした髪をカーラーで巻き、パッチリとした目をアイライナーとフサフサの睫毛でふち取り、美しく身なりを整えた叔母しか見たことがなかったから、あまりの変貌ぶりにビックリしてしまったことをよく覚えている。
いや、”変わった“のではなく”元に戻った“と言った方が正しいと、今ならわかる。眠っているとき瞼がめくれているように見えたのは、アイプチのせいだったのだ。
一重瞼になった叔母はデパート通いをやめ、わたしを連れて喫茶店に行くこともなくなり、仕事もしていなかったから三畳しかない自室にこもりがちになった。

どのくらい経ったころだったか、恋人の浩一さんがご両親と弟さんを伴って訪ねてきた。
おそらくそのときの両家の会合でなんらかの手打ちが行われたのだろう。
「人間は支配する側とされる側しかないない。一流の女になりたければ他者を支配する器量を身につけなさい」と、わたしがまだ三つの頃から竹尺をふるって“女子力”を仕込もうとした祖母が、一体なにを譲歩したのか見当もつかない。
ただ、その日を境に叔母は再びミニチュアの竿上げで瞼をたくし上げ髪を整えてから自室を出るようになった。ひとつ変わったのは、お風呂上がりから就寝前までは素顔で過ごす油断を見せるようになったことだ。わたしは、その気弱そうに見える叔母の小さな瞳がとても好きだった。

その年のうちにふたりだけのハワイ挙式はつつがなく遂行され、帰国後には両家のみで神前式が執り行われた。こじんまりとした会食の席で、ハワイでの教会式の様子を撮影したフィルムを揃って観た。
誓いのキスを交わす映像が流れると、大人たちはわざと音を立ててお茶をすすったり空咳をしたりして、気まずさを追い払おうとしていた。
わたしはなんだか怖くなってぎゅーっと目をつむり耳を閉じ、固くなったステーキを噛む音で頭の中を充満させながら、場面が変わるのを待った。

浩一さんは叔母の素顔を見たことがあったのだろうか。ときどきカツラを着けていたことや、二重瞼が偽物だと知っていてもプロポーズをしたのだろうか。
叔母は、嫁ぎ先でも誰よりも早く起きて顔を作り、アイプチをして薄目を開けたまま誰よりも遅く眠るのだろうか。
会食中一言も口を聞かなかった祖母が、最後に新郎の浩一さんから花束を渡されたとき、こらえきれずに泣き出してしまった。
わたしは叔母が幸せになれるような気がしなくてとても悲しかったけど、マインドをふたたび“雪平チャンネル“に合わせて(この堤防を決壊させるわけにはいけない!)と瞬きを我慢して、叔母に悲しみが伝播しないようどうにか均衡を保った。
瞼の糊が涙で剥がれると、気弱な叔母の瞳が無防備になってしまうから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?