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劇場版シン・エヴァンゲリオン反応が分かれる理由


以下の考察は
劇場版シン・エヴァンゲリオンのネタバレも含まれます。

エヴァンゲリオンは
1995年のテレビ放送から今まで続く
アニメでサグラダファミリアをしてきた
唯一の作品であろう。

しかも製作者だけが作った巨大構造物ではなく
観客のリアクションや深読み解釈及び社会現象を含めて、観客と製作者の26年に渡るラブレターの往復がアニメのサグラダファミリアを積み重ねてきた。


劇場版シン・エヴァンゲリオンに対して、さまざまなリアクションがあるが
本論では
なぜそのリアクションは起きるかを文学批評になぞらえて考察していく。

95年のテレビアニメーション放送時より、一部ファンの間で
エヴァ謎解き合戦が始まったのには理由がある。

エヴァがプロットとしての魅力を持ちながら
その製作者の現在進行形のアニメの限界への苦悩を吐露するような
制作の裏側がアニメ本編に差し込まれていたからかだ。

25話26話における
ストーリーの崩壊や
製作過程をそのままみせるような
脱構築的な手法は
それまでのアニメの枠を超える試みであった。

良質のアニメのエンディングは
いかにあるべきかという問いを
観客に委ねるようなエンディングである。

26年にわたる
視聴者超参加型アニメは
このエンディングから始まる。

ただ
エヴァンゲリオンがここまで
視聴者の心を惹きつけたのは
エンディングの不可思議さと裏腹に
そこに至るまでのストーリーの
伝統的な進め方のうまさがあったからである。

14歳という多感なジュヴナイルもの
家庭という愛の押し付け合い
成長と反抗
科学文明批判
宗教が人を洗脳する力
などなどのテーマは
伝統的な物語構成により描かれていたからこそ
視聴者はエンディングをさらに期待した。

ここでエヴァンゲリオンとは
ふたつの大きな軸を持つストーリーであると仮定したい。
ひとつは1960年代フランス発の構造主義的な
「あらゆる物語に意味があり、なんらかの解釈可能で、つまり解を持つ」という
英国小説によくあるプロットの面白さ。
もうひとつは
1970年代フランス発のポスト構造主義的な
「あらゆる物語に意味はなく、なんらかの解釈をつけることは不可能。なぜなら、その解釈は解釈者のバイアスから自由にはならない、偏ったものであり、物語には解はない」
という
フランス現象学的な
テクストの無意味さこそが
テクストの面白さだとする
テクスト破壊の自由さ。

以降は
前者を伝統的テクスト愛好家による読み方。
後者を20世紀型テクスト愛好家による読み方。
とする。

つまり
簡単に言うと
エヴァンゲリオンは
伝統的なテクスト愛好家による
プロットの面白さと
20世紀型テクスト愛好家による
プロット破壊のダイナミズムから
構成された
作っては壊し
また微調整しながら作るという
永遠に終わらない
有機生命体の生き様そのもののような
作者の手を離れた現象である。

エヴァンゲリオン人気には
ふたつの支持層があり
伝統的テクスト愛好家による
「この話どう落とし前つけるのか?」というものと
「永遠に作っては破壊して終わらないストーリーで視聴者を困らせて欲しい」というもの。

95年のテレビアニメの半分以上に
伝統的テクスト愛好家を喜ばす要素と
25話、26話で顕著になる
そこまで作り上げたプロットを破壊する要素がどちらも存在する。

新劇場版エヴァンゲリオンでは
序と破が
伝統的テクスト愛好家が好む
安定的なストーリー展開。

Qでは
20世紀型テクスト愛好家を喜ばせる
そこまでのストーリーを覆すような
破壊的で不穏な世界観が描かれる。

そこで
新劇場版
シン・エヴァンゲリオンである。



Qを超える
視覚情報の洪水
動体視力の限界突破するような
映像美でありながら


Qにはなかった
これまでの物語の総括と
エヴァンゲリオン世界の解説が
音声情報として
説明的に加えられるため
おそらく
全シリーズでいちばん
わかりやすい物語と視聴者には
感じられる。

こんなにわかりやすい解説があるのは
エヴァンゲリオンではないのではない
のではないかというほどに。

その説明過多な程の種明かしは
伝統的なテクスト愛好家には
26年の待っていた答え合わせの時間として
好意的に受け入れられるだろう。

そして20世紀型テクスト愛好家からすれば
もうこれからは
視聴者と製作者で作ってきた
プロット破壊による
アニメがひとつの有機生命体として生きる様子は今後はないのです。
という最後の手紙となる。
製作者側からのプロットに対する
一定の解が提示された以上
このテクストがこれ以上暴走することはない。

つまり
エヴァンゲリオンはストーリーとしても幕を閉じたし
製作者と視聴者の共同制作するサグラダファミリアとしても
もう制作は終わってしまったわけだ。

もしも製作者が一定の解を示さぬ終わり方をしていたなら
視聴者は答え探しをまだ延々できるし
答えなきストーリーの壮大さに浸ることが可能だった。

しかしエヴァンゲリオンは
プロットとしても
26年の製作者と受け手の共同創造も
終わりなのです。

と言われたかなしみ。

特に
20世紀型テクスト愛好家からすれば
もう君たち
なぞときは
しなくて良いよと言われたような寂しさを感じるだろう。

ただ
もしもこの
エヴァンゲリオンという
みんなで謎作り
みんなで謎解きの楽しみを曖昧なまま終わらせることにも危険性は伴う。

エヴァンゲリオンというサグラダファミリアが未完成のまま
製作者不在となるなら
きっとそれは
本物のゴシックホラーとなり
視聴者はどこにも辿り着けない。

エヴァンゲリオン製作者がいちばん愛したのはもしかしたら
ある時から
キャラクターたちと彼らがいちばん美しくある世界だたのかなと考える。

視聴者の共同制作したい欲望より
フィクションでありながら
すでに20世紀末から21世紀の現在
命を持ったキャラクターが
一番美しく語り継がれるためには
やはり
古典的なテクスト愛好家が喜ぶ最後を
描かざるを得ない。

そしてだからこそ
エヴァンゲリオンは
現象ではなく
ひとつのテクストに戻るという幕引きにより
おそらくこの有機生命体の強さは
アニメーションとして
完全体となる。

アニメという枠を超えて
見る人に謎解きの楽しさという
二次創作の現象的存在だた
エヴァンゲリオンは
26年目にはじめて
ただアニメーションとして
美しい作品になる。

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