瞑想における 知情意の3要素

夏目漱石「草枕」 冒頭より

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

   ※

人間の心の三要素とも言うべき「知・情・意」について語られている。
しかも、それらが個々に突出した場合のネガティブな側面について述べて、この世はどうにも住みにくいものだ、と漱石は嘆じている。

さもあろうというものだが、私がこの言葉を引っ張り出して来たのは、瞑想についてもこの「知情意」ということが言い得るのではないかと考えるからである。

まず、瞑想の「知」の側面について。
インドの宗教、特に仏教やヨーガにおいては、この知の側面が強いように思う。知性から入って、その思考するところは、論理的・数学的である。瞑想における知(智)は、知識としての分別的知ではなく、知識・思考を通さないところの無分別知である。プラジュニャー(般若)というのがそれになる。知る人と知られるものとが別々ではないような、全体的直覚、それは、ものごとの真実を見抜く眼のことである。もし、「私というもの」は「無い」のだ、と見抜いたとしたら、それは透徹した無分別智によるものであろう。ものごとが正しくありのままに見えるのでないと、瞑想の努力はとんでもない方向に進んで行くことになるかもしれない。どうしてもこの智は必要である。
しかし、この知の側面にばかり依って立つと、瞑想は無味乾燥で、人間味を欠いたものになりがちだ。これが正しい、あれは間違っていると言って譲らない、まさに角が立ってしまうことになる。

次に「情」。
「知」を intelligence または wisdom とするならば、「情」を heartfullness と呼んでみたい。
ハートフルネスの瞑想、私はこれを重要なものと位置付けてみたい。ハートフルネスの行き着くところは、慈悲(愛)であろう。
仏教の教えも智慧と慈悲ということに尽きる。智にハートが伴わないと、瞑想は死んだものになってしまう。ハートフルネスは、詩情を伴なうものであり、人や世界への信頼もここからしか生まれない。仏教でも、浄土の教えは、信ひとつの道であり、智や悟りに偏りがちな瞑想に、別種の風を送り込んでいるように思われる。
しかしながら、「情」一辺倒で、そこに智がないと、人は愚かしい行為に走るかも知れない。情に流される、ということにもなってしまう。

そして「意」、これは意志であり、実行する力である。
智慧があり、温かいハートがあったとしても、意志の力が弱いと、優柔不断でまっすぐ進むことが出来ない。じっくりと腰を据えて、まじめに取り組むということがない、そして継続することができない。いつまでも堂々巡りをしては、言い訳ばかりすることになる。
猛烈な意志力で荒行に挑むということまではしなくても良いはずだと思うが、ある程度、身を律して現実生活の上で実行するということは、やはり必要だろう。これは意志薄弱な私自身に言っているのだ(笑)

思うに瞑想は、これら三つを備え、しかもどれにも偏らないで(人には個性があるのでどれかに偏しているものなのだが)、修してゆくのが良いのではないかと思うのである。

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