On Sadness(悲しみについて)

瞑想を続けていると、人は悲しみから自由になって単純にハッピーで元気になるのだろうか?勿論そのような側面もあるには違いないだろうが、それだけでは片手落ちの感じがする。まだ深みに達していない。
瞑想を続けてくると、むしろ心の中に人の悲しみが飛び込んでくるようになる。また人の喜びも飛び込んでくるようになる。
悲しみから自分を守ろうとする抵抗を持たなければ、悲しみはその深さを伴って直接にやって来る。苦しみもやって来る。
この悲しみは自分の悲しみなのだろうか、それとも誰かのものなのだろうか?もしかすると、誰かに属しているのではない、あるいは誰もが等しく抱えているところの無名性の(普遍的の)悲しみなのかもしれない。

インドで瞑想している時に、そんな感覚を体験したことがある。当時の私はまだまだ心の苦しみに苛まれ続けていた。この苦しみは今でも私の中で続いている。この苦しみに何とか対処し、乗り越えて行けるという感触を掴み始めたのは、禅に再び参じ始めたこの四、五年来のことである。
何がそんなに苦しいのかと、人によく尋ねられたものだ。これは前生からの宿業によるものだとしか言うことができない。
当時のある時、瞑想の中で感じたヴィジョンは、・・私の意識は鋼鉄でできた絞め木のようなものでギリギリと絞め付けられているという、痛々しくもむごたらしい感覚であった。私の意識体は血まみれであった。これは前生にそういうことがあったということでは必ずしもない。頭脳がそのように解釈したものと考えたほうがよいのだろう。
この時私は、苦しみに苛まれていたというよりも、苦しみの根っこをはっきり掴んだ(それまでは得体の知れないものであった)ように感じて、なるほどこれであったかという発見に、むしろ驚きと興奮を覚えていた。

いのちがそのように絞め木で絞り上げられている状態、そのどうしようもない無力感の中に、私はただ留まっていた。どうこうしようとする意図も持たずに。するとそれはある瞬間に、次のように開けて行った。これは私に起こっていることだが、必ずしも私のものではない、これは実はあらゆる人々が置かれている状況なのだと。そのように感じたとき、私の両親家族や回りの人々、そしてあらゆる人々の苦しみを思って、それは大きな悲しみとなった。そのとき自分の苦しみはどこかに去ってしまっていた。静かな懐かしいようなやさしさの感覚に包まれて、私は一人涙した。悲しみをその深みにおいて経験するという最初の経験であったかもしれない。

(ALOL Archives 2014)


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