私の関心は、実のところ、見性でも悟りでもなかった
内的な苦しみをどう乗り越えられるか、あるいは乗り越えられないのか、という一点ばかりであった
ここに決着が付かないような悟りには意味がなかったのだ
そのようなわけで、私の禅に悟りの文字は存在しない
強いて言えば、苦しみの変容が悟りだ

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