いろは歌の深層

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

いろは歌とは、まことに不思議なものである。日光には有名な「いろは坂」があるが、カーブに付けられたその一字一字を追って口ずさんで行ったとき、ますますその思いを強くして感嘆したことである。
いろは歌を漢字を用いて表すと、

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有爲の奥山 今日越えて
淺き夢見じ 醉ひもせず

明らかに仏教の無常観を表している。文字を覚えるためのアルファベットに、このような意味を持たせて、人の無意識の内に真理の教えを薫陶してゆく、日本というのは凄い国だと思わずにはおれない。
「色」は、般若心経を読んだ人ならすぐわかるように、物質的現象世界のことである(梵語では「rūpa」)。ここではそれを花の香りに例えているのがいかにも詩心を感じさせる。
色(しき)がどうして常であろうか、常でないということは、真理なのであって、必ずしも悲しむべきことではないのだろう。花が咲くことに美があれば、散り行くことのなかにもまた美がある。常ならむことのなかに、刻々の真実がある。
3行目の「有為(うい)」は、無為に対する言葉で、因縁によって起こるあらゆる現象の意。生滅する(外的および内的な)現象世界の一切の事物であるという。有為の奥山という表現も凄い。世界が抱えるあらゆる問題、そしてあらゆる内面の苦悩が、奥山のように抜き差し難く連なっている。どんな人間も直面している現実である。それを超えてゆくのは、今日すなわち今だというのである。問題の解決は、時間すなわち思考の中にはない。
浅き夢、心をものごとに酔わせる(執着する)ことで人生を浪費してはいけない、という。

素晴らしく香る花も散り行くものなのだ
この世で誰が常のままでいられようか
奥山のように連なるあらゆる苦難をいま超えてゆこう
浅はかな夢を見たり、酔いに溺れたりなどすまい

ブリタニカ国際大百科事典を見るとつぎのようにある。(手持ちの電子辞書より)読み流してください。
いろは歌
47字のかなをすべて一度ずつ用いてつくられた七五調の歌、「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」をさす。最後に「京」か「ん」を加えることもある。習字の手習詩(てならいことば)として用いられたが、字母表として辞書の配列順(いろは順)に広く用いられるようになった。いろは歌の最古の文献は『金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)』(1079)であり、いろは順の辞書の代表は『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』である。同じく手習詩として用いられた「あめつち」が48文字で「・・・え・の・え・を」と「え」が2度出て、ア行のエ[e]とヤ行のエ[je]の区別を示しているのに対し、いろは歌が47文字であることは、上の2種の音韻的対立が失われた10世紀中頃以後の作であることを示しているというのが通説。ただし、いろは歌もその前の「たゐにの歌」も、ともに48字が原形ではなかったかとみる説が出ている。いろは歌の製作意図についても諸説がある。俗に作者を空海とするのは誤り。

いろは歌は誰が何の意図で作ったものかは、諸説があって定まってはいないという。
空海が作ったものだという説が根強くあるが、言語学的には否定する見方が主流のようだ。しかしこれほどの文章をアルファベットとして(同じカナを使わずに)考え出して普及させるというのは、なるほど空海ほどの人だったら成し得たのではないかと思ってしまう。いずれにしても空海級の人の仕業であるのに違いない。

このいろはの歌は、「涅槃経」の中の無常偈(むじょうげ)の内容を歌にしたものだと考えられている。確かにそうであるに違いない。右側に示したのは、梵語(パーリ語)での読み(インドの雰囲気だけお届けする)。

諸行無常 しょぎょうむじょう aniccaa vata saGkhaara
是生滅法 ぜしょうめつぽう  uppaadavayadhammo
生滅滅已 しょうめつめつい  uppajjitvaa nirujjhanti
寂滅為楽 じゃくめついらく  tesaM ruupasamo sukho

諸行は無常であって
これが消滅の法なのだ
この生と滅とを滅しおわって
寂滅をもって楽となす

かくも短い詩の中に、仏教の真理(ダルマ)が宣告されているように思われる。仏教とは、悩み苦しんでいる人に対する教えであるのだろう。寂滅為楽、抜けきった本当の喜びの世界がここにあるよ、と人は呼びかけられている。

この無常偈は、涅槃経の中に出てくるものである。雪山偈(せっせんげ)とも、夜叉説半偈(やしゃせつはんげ)とも呼ばれている。
涅槃経の中の聖行品(しょうぎょうぼん)に、雪山童子のものがたりがある。雪山童子とは、はるかむかし雪山(ヒマラヤ)に入って修行していた童子なのだが、これはブッダの過去生の一つなのだという。

童子が道を求めて雪山で修行していると、どこからともなく清々しい声が響いてきた。
「諸行無常 是生滅法(諸行は無常なり、是れ生滅の法なり)」
この偈を聞いて童子は大きな感銘を受けた。あたりを見渡してみると、一匹の羅刹(らせつ; 鬼)がいた。まさかこの羅刹ではあるまいと思いつつも、
「いまの偈はあなたが頌(じゅ)したのですか」と聞くと、
「その通りだ」と羅刹は答えた。
「どうか後(のち)の半偈を教えていただけませんか」
「いま私はハラペコで説けない。お前の身を私にくれるというのならば、教えてやらないこともない。」
「・・・。わかりました、教えてくれるのならこの身をあなたに捧げましょう」
羅刹は残りの半偈を唱えた。
「生滅滅已 寂滅爲樂(生滅滅し已(おわ)りて、寂滅を楽と為す)」
童子はそれを聞いて、大きな喜びに包まれた。そしてその偈文をあちらこちらの木や石に書き記した後、もう思い残すことはないとばかりに、木に登ってまっさかさまに身を投じ、自分の身を羅刹に供養した。
そのとき童子は空中でフワリと受け止められた。羅刹は、童子の覚悟を試すために帝釈天が化けていたものだったのだ。
帝釈天は「あなたこそ真の道を求める人である」と讃嘆したということである。

羅刹(夜叉)がもったいぶって半分ずつ説いたので、夜叉説半偈と言うのだろう。
半分は説いてやるが、残りの半分を聞くためには命がけである。いやはや恐ろしい話である。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
修行は自分自身ということで始めるが、いよいよのところに行くと、自分を超えた領域に向かってダイブしなければならないという暗喩なのであろうか。
瞑想は宇宙に向かってのバンジージャンプである。

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