東洋と西洋
男と女が互いに理解するのが難しいように、東洋と西洋もその価値基準を一にするということは、なかなかに困難なことなのかも知れない。
インドのアシュラム(道場)に居たときの印象的な思い出をいくつか。
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あるアメリカ人女性と話をしていた時のこと。彼女はサイキックな能力を持つヒーラー(治療家)であったが、日本に帰ってからの食生活などについて幾つかのアドバイスをしてくれたことがあった。彼女はこういう言い方をした。「あなたが、the West に戻ったら・・」と。はてと思い、私は聞き返した、「あなたは、West ということで、日本のことを言っているのですか?」 すると当たり前だという顔をして、「そうです」と言う。彼女にとって日本は、インドのようなアジアに属する国の一つではないようだった。西側先進文明の一部だというのだろう。
日本の現代生活の様式も、受ける教育にしても、やはり相当な西洋化が進んでいる。日本はもはや東洋だとは言い切れなくなってしまっているかのようである。西洋的な伝統の熟成を経ないで、形だけ西洋化しているのが、まことに中途半端で危なかしい感じがする。
瞑想ということに関して、西洋は一種のハンデを負っているはずだと思うが、それがまた日本人にも当てはまるようになって来ているのかもしれない。
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ある日、アシュラムの庭園の木陰にあるベンチにひとり静かに座っていると、時々話を交わすドイツ人男性が近付いてきて、私に尋ねた。
「何をしていたんだね」
「ああ、meditate(瞑想)していたんだよ」と私。
瞑想をするためのアシュラムなのだから、当たり前のことである。しかし彼はさらにこのように聞いてきた。
「Upon?」
ははあ、と思った。「meditate」という英語は通常、「~について深く考える・瞑想する」というような言葉で、「meditate on~」、「meditate upon~」という風に使うのである。「I was meditating」だけでは、答えとして不服だったのだろう。
「存在について瞑想していた」とか「相互関係について瞑想していた」とでも言えば、「あっそう」と納得したのだったろう。(ちなみにドイツ語でも、同じ意味でahso;アハゾウと言う)
しかし東洋では、瞑想は瞑想であって、「~について」などという二重性・分断はないはずだ。
仕方なしに私はこう答えた。「Upon nothingness」(何ものでもないものについてさ)と。
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少し自慢めいた話をもう一つだけ。私によく話しかけてくる、若いアメリカ人男性がいた。ある瞑想セッションで一緒だったことから親しくなったものだ。あるとき何かを悩んでいたらしく、二人で歩いている時、「私はどうすべき(should)なんだろう?」と聞いてきた。何の話であったかは忘れてしまったが、瞑想に関することではあったに違いない。私はすぐさま「You should」に続けて、「drop your should!」とやった。「すべき」を落す「べき」だと言ったのだが、これは言葉の矛盾ではある。歩いていた彼は立ち止まって、一瞬呆然となっていたようだった。
瞑想は全一な体験であって、should などという意図が入っていたら、人は二つに分かたれてしまう。その時その時の状況を、ただありのままに受け入れ、それそのものとして在る、こういう所に、東洋的な見方、東洋的な「知」のあり方があるのではないだろうか。知る人なしに知る、不知の知、知の不知、わけがわからん、という端的である。
(ALOL Archives 2013)
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