六祖壇経より 1

六祖慧能(638-713)
インドから中国に禅をもたらしたボーディダルマ、そこから数えて六代目の祖である慧能。
この六祖から、いよいよ禅は、中国に根付いたものとなってゆく。
中国禅の礎を築いた偉大な禅マスター・六祖慧能。
六祖壇経(全十章)の第一章・行由から、六祖の経歴を追ってみることにする。
それは実に、驚きに満ちたものであった。

   ※

韶州(しょうしゅう)の韋(い)知事という人が、宝林寺に六祖慧能を訪ねて来て、城中・大梵寺の講堂で、人々のために説法してくれるように頼んだ。
六祖が説法の座についた時そこには、知事と属官が三十人あまり、儒家の人々が三十人あまり、出家と在家の仏教徒が千人あまりがいて、一度に礼拝して、真理の教えを聞かんことを願った。
ブッダムシャラナムガッチャミー、ダンマムシャラナムガッチャミー、サンガムシャラナムガッチャミー。

六祖はこのように話し始めた。

尊敬すべき人々よ、われわれの本性は、もともとが清らかで美しいものなのだ。
このこころを働かせさえすれば、あなた方はただちにブッダであるのだ。
尊敬すべき人々よ、わしがどのようにしてその真理をつかむに至ったのか、しばらくお聞きなされ。

   ※ 

慧能の父親は、北方の范陽(はんよう; 河北省)の人であったが、左遷されて、南方の新州(現 広東省)の百姓となった。
その父は早くに亡くなったため、母一人子一人となり、南海の地に流れて行った。
貧乏暮らしの慧能は、町に薪を売りに行って、暮らしを支えていた。

ある時、一人の客が薪を買ってくれて、自分の宿にそれを届けさせた。
銭をもらって帰る時、別な客がお経を唱えているのが耳に入って来た。
その一節を聞いた時、しずかにこころが開けてゆくのを覚えたのである。
「あなたは何というお経を読んでいるのですか?」
「これは、金剛経というのだよ」
「どこからそのお経をいただいて来られたのですか?」
「私は、黄梅県(湖北省)の東禅寺からやって来たのだか、そこでは五祖弘忍(ぐにん)禅師が教えを説いておられて、門人は千人あまりもいるかな、お経はそこで頂いたのだよ。禅師は、常に金剛経を説いて、見性して直に自ら成仏することを教えておられるのだ。」
「!」
慧能はこれだと直感した。五祖のところに行かなければならぬ。
しかし老いた母親を一人置いて行くわけにもいかない。
すると慧能の志に感じた人が、資金を援助してくれ、母の生活費に充てることができた。
それですぐさま、五祖のいる黄梅を目指した。三十日あまりの行程であった。

慧能は五祖にまみえた。
(このとき、慧能二十四歳、五祖はすでに七十歳を越えていた。南方から一人の若者が、偉大な菩薩の再来がやって来ることは、五祖には予見されていたことだったに違いない。しかし五祖は、若者に厳しい態度で臨んだ)
「お前はどこからやって来て、何を求めているのだ」
「私は、嶺南新州の百姓(平民の意)です。遠くからやって参りましたのは、仏になるためであり、他のことを求めてではありません」
「お前は嶺南からやって来た田舎者ではないか。どうして仏になることなどできようか」
(五祖はこの若者を験していた。ここで腹を立てて帰ってしまうようでは、どんな偉大な魂であろうと用はない。しかし慧能は、そんな言葉になど惑わされない。五祖の本質を見抜いていた。)
「人に南北の別があったとしても、仏性には、もとよりそんなものはありません。この卑しい私と、立派な和尚様とでは、なりが全く違っていますが、仏性に何の別がありましょうか」
「・・・(うむう、やりおる)」
五祖はもっと話をしたいと思ったが、回りの者たちが不審がっているのを見て、こう言った
「さあ、それではお前も作務に加わりなさい」
「和尚様、私は自らの心に、常に智慧を生み出しています。自分の本性から離れることがなく、いつも福の源泉にいるのです。私にいったいどんな労働をさせようというのです」
五祖は、衆徒が、慧能に悪心を抱いて害するものが出て来はしまいかと心配してこう言った、
「この田舎者め、鋭いやつではある。しかしもう口を開いてはならぬ。さあ、作業小屋に行きなさい。」
慧能も師の意を了解して、小屋に入り、行者(あんじゃ; 寺の労務者)として、薪を割り、米搗き臼で米を搗くばかりであった。

   ※

しかしその刻々の労働のさなか、刻々の動きの中に禅は行じられていた。禅のトランスミッション(伝法)は、誰にも気付かれることなく、秘密裏に進行していたのである。
米搗きの臼は、ダルマチャクラ(法輪)の回転体となって巡っていた。

菩提樹下一団の清風は
嵩山面壁の雲とたなびき
黄梅の日向にしずかな臼の音となって巡ってゐた
   中川宋淵





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