見出し画像

話がしたい、というときに

時に、純粋に「話がしたい」と思うことがある。ご飯を食べながらお喋りをするというわけでもなく、お酒を飲みにいってそのアテにというわけでもなく。ただ会って、カフェとか家とかどこか比較的静かな場所で顔と顔を突き合わせて、時間を気にせずに話したいと思うことがある。いつもそうというわけではないのだけれど。

何か目的があるわけじゃないけど、その人と会って、1つのことに深く没頭していたい。それが「話をする」というごく単純なことだととてもいい。こういうことは単純であればあるほどいい。そういう経験が、ふとしたときに何かが切れたように必要になる。そう、ちょうどこの間テレビでやっていたような、ちょうど小説の中で誰もが読んだであろう光景のような。朝陽の光で目が覚めて、ゆっくりと支度をして街中のパスタとピッツァの美味しいお店でブランチをし、友人と話をし、街に出て散歩をして、夜はワインを飲んで映画を観て同じベッドで眠る、というまったりとした時間。たぶん、普段の喧騒のなかで生きていると、そういう機会は滅多にない。

ただ、単純であって簡単ではない。学問や恋愛や人間関係や仕事や、あれやこれやの思いつきを初めに、1つのことを丹念に追って話す。時には別のことに展開してもいいが、聞き手にも配慮しなければいけない。しかも、相手の話も聞かないと、相手も面白くないだろうし自分も面白くない。この「話し」は、ずっと前からしたいと思っているけど、なかなかそれができる場所や相手や機会は少ない。それはさっき言ったように、大抵の人がせわしい生活のなかでやることに追われているか、仲の良い相手と会う予定があるにしてもそれは何かの目的が別にあることがほとんどだからというのが大きい。「ただ会うために会う」という時間を忘れていくのは悲しい。大人になるほど、目的もなければそんな「悠長な」時間を取ろうと思う人はなかなかいないのかもしれない(僕にとっては飲みに行ったり遊びに出かけたりするのと同じくらい重要なのだが)。ただそういう実際的な理由とは別に、この「話し」を成り立たせるには、いくつか条件が必要だと気づいた。

まず、①「話を聞き、話をする」というコミュニケーションができる相手でなければならない。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、実際にそんなにコミュニケーションが上手にできる人の方が僕から見れば少ない。聞き役ができない人が多いからだ。そして第二に、②他人とその意見を認められる人でなければならない。これは①以上に難しいのだから、条件の厳しさに目眩でもしてきそうだ。もちろん、それができる人も周りにはいるけれど、大事なのは、マウントを取ったり、上下意識を持たないことだ。こういうことをしてくる相手はすぐにそれとわかるし、だいたいは安いプライドの裏返しだ、それが見極められる人間であれ。第三に、なんといっても③こうした目的と条件を共有している人でなければならない。必ずしも特定の同じ話題を持って、「さぁ話をしよう」と肩肘張らなくてもいいのだけれど、相手にわからないことは説明したり、広く一般に語り合ったりできるということが重要だと思う。こうして見てくると、休日に、午前中くらいから2人で会って、少し他愛もない話をしてから、ゆったりとランチを食べて、それからどこか日の当たる暖かい場所で、できたら景色のいいところで、時間を忘れて、「ただ話すために話す」という、この行為の価値に共感してくれる人がいたなら、どれほどいいだろうと思う。

本でも買って知恵にします。