貧すれば鈍する
以前勤めていた出版社は、社長とその友人(アワヤさん)が立ち上げたものだった。
私は創業から15年ほどして、会社が軌道に乗ってからの入社だったので、開業当時のほんとうに苦しい経営を知らない。
アワヤさんは、ときどき当時のことを私に語ってくれた。
二人は若く、志は高かった。日本の文芸を支え、たとえ儲けが出なかったとしても、世に送り出さなければならない書物がある、と歯を食いしばって刊行を続けていたという。
しかし、それはきれいごとで、会社経営はなかなかうまくいかなかった。仕事がないから、することがない。信念を持って出した本は売れないから、お金がない。当然、取引先(印刷所や製本所)への支払いもできない。経理を担当していたアワヤさんは、ほうぼうへ頭を下げて支払いを待ってもらっていた。
仕事がないまま、いつしか、二人は昼間から酒を飲むようになっていたという。酒を買う金はあったのかと思うけれど、直接注文で本が売れれば、酒を買うくらいはできたのだろう。
そんな中、進めていた本の校正ゲラを持って、印刷所の社長が訪ねてきた。
もう何か月も支払いを待ってもらっている会社だった。しかし、二人は泥酔中だ。
その様子を見た印刷所の社長は、ぽつりと「〈貧すれば鈍する〉か。どうしようもないな」とつぶやいた。
怒るでもなく、呆れるでもなく、静かに、ただそう言ったのだ。
「あの一言がなかったら、今の会社はないよ。本当に痛いところを突かれたと思ったし、恥ずかしかった。俺は何をやっているんだと目が覚めたよ」
この話を、アワヤさんは、私に何度もしてくれた。信頼を裏切った自分への戒めとして、また、私に同じ轍は踏むなと諭すために。
高い志を持ってはじめたはずなのに、お金がないというのはその志を蝕んでいく。
アワヤさんはもう亡くなってしまったし、社長とは袂を分かってしまったけれど、あの会社で学んだことはたくさんあった。
「貧すれば鈍する」
紆余曲折の末、仕事をやめてひとり出版社を開業した私の、座右の銘となっている言葉である。
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