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芥川龍之介 鼻を読んだ感想

はじめまして!2022年12月から始めました、くしゃみと申します!これから本の感想を気ままに書いていきたいと思ってます!何卒よろしくお願い申し上げます🙇

内容の把握をしてもらってからのほうが感想をよく分かってもらえるのではないかとおもったので、お話をまとめましたので良かったらお読み下さい。

 偉い僧である内供にはコンプレックスがあった。鼻が異常に長いことである。民衆に笑われるのが耐えきれなかった彼は鼻を短くしようと苦心する。何をしても治らなかった鼻だったが、ついにある治療法が分かった。なんと鼻を湯につけてふやふやにし、踏んでもらうのだ。弟子に鼻を踏まれる屈辱を受けながらも、ついに普通の鼻になれた内供は得意顔で人々の前に出るが、なぜか以前より笑われているような気がする。

鼻が短くなったことが嫌になっていたある日、いつの間にか自分の鼻が再び異常に長くなっていることに気づきもう馬鹿にされないと安心したようにそれをぶらつかせる内供であった。

以上がお話の要約となります。

この作品のメインテーマは大抵の評論本では「人の幸福をねたみ、不幸を笑うと言う人間の心理を捉えた作品。」となっています。たしかに人々は内供の不幸を笑うし、鼻が短くなったら物足りなそうにする、そういう人の心理を描いた作品です。

しかし私はこの話を読んだときには僭越ながらむしろ鼻を気にする内供の方にテーマがあるのではないかと思いました。つまり「自分の自尊心の高さを気にすることの虚しさ」がこの作品のポイントだなと。これについて説明いたします。

慣用句では「鼻が高い」があり、鼻は自尊心の象徴として有名です。また、内供はどんな手を使っても鼻が治りませんでしたが、唯一、鼻を踏んでもらうという(屈辱的行為)行為的メタファーで短くすることが可能となります。これは目下の者に鼻を踏まれてやっと、治らないと思っていた鼻がついに短くなるという、脱帽してしまうほど整合的であり強力な精神的メタファーだと思われるのです。ですからこれは推測ですが、弟子以外に鼻を踏んでもらったとしても彼のでかい鼻は短くならなかったのではないかという気もします。目下の者にも屈する、というのが自尊心を低くすることに関係あるのではないのかと思います。

つまりここまでで書いた通り、この作品において「鼻」というのは「自尊心」のメタファーということです。

自分の自尊心が高すぎるのを気にし(この作品でいうところの、鼻が異常に長いこと)、人には高く見られないように苦心し(努力して鼻を短くしようとする)、目下の者に迎合するように振る舞い(弟子に鼻を踏ませ)、やっと人々に自分が偉そうにしていないことをアピール出来た(鼻が短くなった)が、結局その虚勢が馬鹿馬鹿しく虚しく見える(人々が短くなった鼻を笑う)。自分が自尊心の高さを気にしていることさえも人に知られたくないがために、自尊心さえも偽ろうとする内供の愚かさを伝えたかったのではないかと思います。

また余談ですが、芥川龍之介は自殺する間際に、次のような辞世の句を残しています。

水洟や 鼻の先だけ 暮れのこる

自殺間際の暗い部屋で鼻水が垂れた自分の鼻だけが光っている。という意味の句らしいです。
これは何もかも失い真っ暗になってしまった人生、自殺する前の自分の片隅には自分の自尊心(=鼻)しか残っていなかった…というエゴの膨張を嫌った非常に悲哀が感じられる句のように思われます。

私の感想は以上です。僧の鼻が長いという不思議なお話ではありますが、夏目漱石も絶賛したというので、短編ですが味わい深い作品ですよね。


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普段は小説、新書の感想記録を書いてます。工学系の学生ですが、専門知識ばかりあってもだめだと思い読書を始めました。他の投稿も覗いてみて下さい!


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