森の生き物

政治への興味が薄れているといいます。そもそもの政治とはどういう働きなのか?

政治が操作するのは、理想とか未来ではなくてすでにあるもののようです。すでにある、ハンドルやペダルやキーボードみたいなものを操作して、バランスや流れを変えていくこと。

例えば自動車を運転することであって、UFOを運転することではない。持っていないものを運転できません。政治は非常に「勘定」的なものでした。その上で、A派意見やB派意見に投票される。

夢の社会や新しいビジョンなどは一義的には政治ではなく、経済や文化活動なのでしょうね。とはいってもカタストロフを起こすくらいなら、予防を慎重にしておく方がよいですから、長期的な心配に対してどのくらい舵取りをするかが問題になると思います。金融状況が環境に顔を向け出したからそうするというのなら、投票とか政治とかは経済さんに負けているわけです。


市民への「欲しがらせ」と制御側の「欲しがり」が環境負荷問題の下部構造です。「欲しがらせ」は、「欲しがる」が商談をしかけてくること。

言語や前言語を強く肯定して無駄に言葉が多い状況ですよね。ヒトに要るものが足りるために、こんなに言語や前言語状の目的とか説明とかいらないかもです。平均的な日本の暮らしでは、お勧めされなくても生きていける。

必要が足りてくると退屈が問題でしょうけど、「欲しがらせ」に中毒しなければ、退屈問題は軽くなります。声に出す言葉は主に仲間に危機を知らせる信号だったのなら、うるさすぎる現代はメディア禍で、災害環境です。


エネルギーが変わっていくとか、自動化していくとか、移動距離や速度が変わるけど、僕らは日々移動し、よく乗り物に乗って生活をする戦後からの生活は変わらないし。

インターネットで世界がつながるというけれど、途方もない昔に農業技術は世界の人類に広まったようだし、伝達速度は上がったけれどつながり自体は人間が地球に散らばった時からある。

速すぎることが問題で、デジタルが世界に広まってクラウド接続されたあと、頭が先行しているけれど現実がついてこれない。

「こうすべきだ」という理想意見にも、人々の意識の変化は追いつかない。
それに現実には、人間はそんなに言葉で動かない。思考が変わればナニが変わるみたいに態度を変えろというのは、熱の外側ではほぼ効き目がない。フィルターバブルの外にまで響かない。それでもという場合は、人民をメディアに染めるくらいしかない。どれだけ思い込んで演技できるかみたいな話なので、そこまで酔えるヒトは多くない。

変化の鈍化が実際の政治結果に映されているのかもですね。政治が遅いのではなく、メディアに感化されている理想が先に行きすぎているのが地上からの脱線状態なのかもと。または「話し」や「イメージ」の先走りについていけないよという心の嫌がりが映し出されている。つまりは「メディア禍」によって、嫌理想的な世界の空気なのかもです。

子供から大人まで、もういうことを聞きたくない、自分でやりたい、と要約するといっているようですから。

ネットで人類は理性的になって世界から貧困と戦争がなくなりなんていう学者がいましたけど、逆ですよね。ネットが禍になっている。あと、スモールワールドネットワークで世界は6回でつながるというのも、人間関係を切ってよしといい出したのだから網がズタボロかもですよね。20年代は10年代と全く違うものになりそうです。


大袈裟な「目的」のせいで、当たり前な習慣が難しくなる。「目的」を忘れたらやらなくなって、やれない人になってしまうのだから。「目的」を人生に常備せよという指令に無理があるのだと思います。

生き物として考えるなら、「目的」がなくてはまずいのは、現状を抜け出せって時くらいだと思います。僕ら砂漠を彷徨っているわけではないのだし。少なくとも今は。

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