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功利主義批判のようなもの

もう言い尽くされてる気もしますが、功利主義に対する疑問点をつれづれなるままに書き綴っていきます。

1.「帰結」はどこにあるのか

功利主義は、「行為の正当性はその行為がもたらす帰結(結果)によって決まる」という帰結主義の立場をとっていますが、「帰結」をどこまで含むかによって評価が変わることもあります。

例えば、「トロッコ問題」という有名な問題の類似版に、次のような問題があります。

【ジョージは路面電車を見下ろす歩道橋に立っている。彼は、歩道橋に近づいている路面電車が、コントロールできなくなっているのが分かる。その線路の先には、5人の人がいるが、逃げられそうもない。ジョージは、暴走電車を止める一つの方法が、1人のとても太った人を線路に突き落とすことだと知っている。そのとき、ちょうど太った男が、歩道橋から電車を眺めている。ジョージはその男を、路面電車の線路に突き落とし、その太った男を殺すことが出来る。そうでなければ、彼は突き落とすことを控え、5人を死なせることになる。】ニコニコ大百科からの引用です。

功利主義的には、1人を死なせて5人を助けるこの行為は善だとされますが、「帰結」を「太った男がトラックを止めた時」ではなく、「この行為が正当化された時」とすると、評価が変わってきます。

この行為が正当化されれば、個人の生存権が脅かされまず。世の中には社会不安が蔓延し、いつ自分が多数の犠牲にされてもおかしくない状態になります。こうして、多くの人の幸福度が下がります…。ここまでの帰結を見据えれば、この行為は悪となります。

帰結の定義によって善悪の評価が全く変わってしまうのです。

2.幸福は主観的

幸福というのは極めて主観的なものなので、幸福を軸にして行為や決定の良し悪しを決めるのは困難です。ベンサムは「快楽計算」を提唱しましたが、そもそも(ドーパミンのような脳内物質としての)快楽がそのまま幸福といえるわけではないでしょう。

快楽はあまり感じていなくても生きがいがある人生は、快楽は感じても生きがいのない人生より幸福かもしれません。どちらの人生が幸福かは人それぞれ違います。

幸福を最高のものとすることには同意できますが、その幸福の定義は不可能に近く、指標とするにはあまりに主観的すぎます。

3.すっきりしないまとめ

他にも、「最大多数の最大幸福」が不平等を是認する考え方である、などの批判がありますが、これはあまりに言い尽くされているので書きません。

では、どのようにして行動の善悪を決定するべきなのでしょうか。結局この問いは抽象的すぎて絶対の答えは出ないと思います。時と場合によって変わりますし。

ただ、今回帰結について書いたように、先を見据える能力(帰結をより遠くの未来とする能力)は良い判断の糧になると思います。

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