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丸くなること

大人になってから許せることがすごく増えた。
特に大学を卒業してからはかなり変わったと思う。
身内からは「頑固」が代名詞のようだと言われてきたのに、「丸くなった」「穏やかになった」と言われるようになった。

学生時代のアルバイトから前職まで、ずっとサービス業をしてきた。たくさんの他人と関わってきた。お客様はもちろん、学生時代は同年代のアルバイト仲間や親ほど歳の離れたパートさんや社員さん、就職してからは上司や同僚もそうだ。
その中には優しい人もいれば怖い人もいたし、理不尽な人だってたくさんいた。怒鳴られることだって少なくなかった。
その度に私は、喜んだり、悲しんだり、腹を立てたりしてきた。それが素直に生きることだと思ってきたし、私にだって意地やプライドがあったから。

前職ではいわゆる「贅沢品」と言われるようなものを販売していたから、商品であろうとお客様の持参したものであろうと、注意に注意を重ねて扱うことを心がけていた。
でも人間誰だってミスはする。相手がお客様である以上、会社という組織の一員である以上、自分のミスでなくても対応しなくちゃいけない。
お客様の見当違いでも、納得のいく説明や対応ができなければそれは私のミスになってしまう。ひどく怒鳴られてもそれを受け入れるしかなかった。
本当はその場で泣きたかったし、頭に浮かんだ汚い言葉で言い返してやりたかった。

だけど働いていく中で、仕事を覚えたり頼れる人ができたりして少し余裕が生まれると、対峙した相手が誰であろうとどんな言葉を浴びせてこようと、やんわり受け止めたり受け流したりできるようになった。
人生の経験値なんてまだまだ足りてないけど、私なりにたくさんの経験をしてきて、その場その場での正解を見つけることができるようになった。
それが許すことなんだと覚えた。


仕事以外での他人との関わりの中で、自分の意見や気持ちを飲み込んでやり過ごすことを経験したことがある。それもかなり近しい間柄の人に対してだ。
このときも私は全部許したんだと思っていた。
だけどふとしたとき、もしかして諦めたんじゃないかと考えたことがある。
自分の意見を通した訳でもなく、他人の意見を受け入れられた気もしていなかったとき。

例えるのは難しいけど、誰かとの間で起きたことは私の意見だけを通すことはできないし(もちろんそんなつもりはないけど)、譲歩しなくちゃいけないこともある。
許すことと諦めることの境目は曖昧でまだよくわかってないけど、きっと許した気でいて諦めたことはたくさんあるはずだ。事が終わったあとに腑に落ちなかったり、悔しかったり、悲しかったりするときはきっとそう。
そんなとき、自分は歳を取ったんだなと思う。

もしかすると許すことは受け入れることで、諦めることは受け流すことなのかもしれない。
30代の今の体感としては、歳を重ねるにつれて諦めることのほうが増えていくと思う。それが良いことか悪いことかはわからない。でも事が丸く収まるなら、って思うようになったのは大人になったし老いたんだろう。

きっと私は毎日の出来事の中で許したり諦めたりして、角が取れていく。
穏やかさっていうのは心の容量が増えていくことで、それがつまるところ許すこと・諦めることが占める割合なんじゃないかと思う。
尖っているのもかっこいいけど、丸くなるのも案外悪くないかもしれない。


2019年はてなブログに書いたものの加筆修正です。

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