母の話

1月10日、母の命日だったわけですが。

特に何もしないという薄情極まりない大人になってしまいました。
もうハッキリした顔も声も思い出せません。
どういう人だったのかもうっすらとしか覚えていません。
それくらい、母のいない年月の方が長く経ってしまいました。

たまに夢に出ます。
その時の母はいつも虚弱で、私が守らなければいけないような繊細さを感じさせ、命の灯が淡く消えかけているような存在としてそこにいます。

設定と大体の流れもお決まりになっていて、
病気で入院、または死亡したはずの母が当たり前のように私の日常に溶け込み、でも私はそれにモヤモヤと疑問を持っている…というもの。

手術するために入院していたのでは?死んだはずでは?

謎の技術で蘇生されて実は生きていた、とか、なんとか退院できるほどに回復したとか、そういう情報が得られて、なんとなく納得して、いつもの生活に戻る。そんな夢。

でもいつまた母がいなくなるかわからないから、
壊れそうな薄いガラスを扱うように慎重に、もう壊して失わないように。
そう気を張って母と接する夢。

母が病気になったのは、私が幼稚園にいた頃。
帰りの支度をしている時に、幼稚園の先生が慌てて私を呼びに来ました。
そのままタクシーに乗せられて、共に病院に向かいました。

訳がわからないまま、私はしばらく看護婦さんに囲まれて、パソコンで大人しくソリティアをしました。
人生で初めてPCを触った出来事でした。

その後の事はよく覚えていません。
点滴を打ってベッドに寝かされた母と少し会話をしたような気がします。
数年後見つけた日記によると、ずっと体調不良を感じており、小さなクリニックに行ったら急いで市民病院に行けと紹介状を渡されたとのこと。

1度目の入院、私と姉は親戚の家に数か月あずけられました。
私はずっと家でテレビを観たり、祖父の農業を見学していましたが、姉はもう小学生だったので、転校してその環境に慣れて、また転校というのが大変だったろうと思います。
社交的で世渡り上手なのはそういう経験があるからかもしれません。

2度目の入院、私も小学生になっていましたし、期間もそんなに長くはならないだろうとの事だったので、家にしばらく祖父が保護者として泊りに来ていました。
父親は、私が産まれる前から県外で仕事をしていましたので。

母はパートをしていた事もありましたが、病気になってからは通院や家で治療をする必要があったため、ずっと家にいました。
パズル懸賞雑誌が好きで、クロスワードや数独、イラストロジックが得意でした。何度か当選した事があります。
私もその名残で、数独とイラロジを今でもやります。

こんな事がありました。
夜中、トイレに行こうと起きた際に母が玄関の近くでうなだれていたので声をかけると、具合が悪いと言うのです。
深夜1時になろうかという時間帯だったと思います。炭酸が飲みたくてどうしようもないと言うので、コンビニに一人で買いに行きました。今考えると小学生なのによくもまぁそんな時間に行った(行かされた)なぁと思います。
本当にどうしようもなかったのだと思います。

よく炭酸を好んで飲んでいましたが、今考えると吐き気をやわらげたかったり、もしかするともう吐いていた口をスッキリさせたかったからよく買っていたのだと思います。

母がいつか死んでしまうのではないかという心配は、いつも私の中にありました。
家で治療をしていたり、出かけた時に具合が悪そうにしていたりすると、ふと考えるようになりました。
一人きりになれるような場所、トイレの窓なんかから夜空を見上げていると、漠然とした不安がよぎるのです。
そして母が亡くなった日の夜、同じように空を見上げました。

冬休みが開けようとしている1月の始まり、昼過ぎの明るいうちに、母と2人で本屋へ向かう途中でした。
車で駐車場へ着いた途端、今まで普通にしていた母が尋常じゃないくらいに苦しみだしました。

いつもふざけて変顔をしてくるので、一瞬、そんな冗談だろうと笑ってしまったのを今でも後悔しています。
ただ事ではないとすぐに判断できましたが、車で2人、誰もおらず、ひたすら声をかけてもまともな返事をしてくれない母に焦りながら、少しの時間オロオロして、本屋の店員に事情を話に行きました。

幸い病院が近くにあり、雪の解けかけた道路も混雑しておらず、救急車もすぐに来てくれました。
その頃には母も意識がはっきりしだして「救急車呼んで」「もう呼んだよ」という会話をしたのち、一緒に病院まで行きました。
車を駐車して降りようとした際、遠くの道路の信号が変に点滅し、急に苦しくなって時間が止まったように感じたとか、そんな話を救急隊員にしていました。

容体は安定しているが、1日入院して様子を見ようというので、そこから1人で歩いて帰りました。
喉が渇いたから炭酸を、という母に「自販機に炭酸が無かった」からとお茶を買って渡しました。
最期のお願いくらい、ちゃんと叶えてあげればよかったと思っています。

またいつもの検査入院。明日がくれば元気になって帰ってくる。
いつも死ぬことへの不安を抱えていたのに、こういう時だけ能天気な考えになってしまうものなんだなと、今になって思います。
これが1月9日、母と会話した最後の日です。

中学生の姉は冬休みではありましたが、部活の大会で1日不在でした。
ベスト8に入ってたと思います。
朝方、いつものように思春期特有の喧嘩をしたのが最後だったと思います。
私より、姉の方が可哀想だと思っています。

10日。朝10時過ぎ。土曜日。遅く起床した私はアニメを視ながら朝ご飯をどうしようか迷っていました。
病院から電話がきて「お母さんの具合がちょっと悪いから、来てほしい」と言われ、呑気に姉と二人でダラダラ支度をし、子供がタクシーなんて使っていいのだろうかと歩いて1時間くらいかけて病院へ向かいました。

前日入院すると言って寝ていた4人部屋のベッドで、母が死んでいました。
テレビで視た心電図は、真っすぐ直線を引いていました。
心臓マッサージや、おそらく除細動器を使ったであろう事、もう手遅れとなっている状況が、剥がされた掛布団と母の周りを囲む数人の医者と看護婦から感じ取れました。

その姿をみた瞬間、隣で姉が泣き崩れたのを視界の端で捉えていました。
私は、私はなんとしても立っていないといけない気がして、私が、しっかりしないとという気がして、今でもこの状況をハッキリ覚えている程度には冷静でいようと努めていました。
いや、そのころから薄情だったのかもしれません。もうよくわかりません。

今すぐ来れる家族は居ないか、近くに親戚はいないか、そう聞かれて母方の電話番号を教えました。
それからは流されるまま。死因を聞き、単身赴任している父に連絡し、家に帰り、葬式の準備が始まりました。

その夜は、いつもと変わらない静かな中雪が降っていて、こんな寒い日に死んでしまった母が可哀想だと思いながら空をみていました。
母のために炭酸を買いに行った時と変わらない「誰が死んでも、何が起きても、世界は何も変わらずお前だけを置いて過ぎていく」と言われているような気分でした。

という感じで。

私は母が死んだ際に泣きもせず、いや、実感がないままその後を過ごしました。
私たちは母方の親戚の家へ居候することになりました。
父の仕事先は県外。あまり帰ってこず一緒にいた記憶もあまり無い、親子の関係も微妙な人と暮らすのが姉妹揃って嫌だったからです。

そうして転校し、部活や友人や、親戚の家の美味しい食事に、充実した健全な生活をしばらくしておりました。

そしてある日、ふと布団の中で思ったのです。

あれ、いつからこんな生活しているんだっけ、と。

母がいたはず。母の食事、会話、ボロくて湿気の多いカビだらけのアパート生活、毎日いたはず。
居なくなったらどうなるんだろうといつも不安になっていた事。
居なくなって、環境は変わったけど生活できている事。
最初から居なかったような…。そう言われても納得してしまいそうな程に、今の環境に慣れ始めている事。

こんな事があっていいのだろうか。

転校した私は前の友人ともう2度と会えないかもしれない。母は、もう会えない。
死ぬとは何なのか。私も、前の学校の友人からしたら、今後一切連絡しなければ2度と会わないような死んだような存在ではないか。
逆に、母は会えないだけで、どこか遠くで存在していてもおかしくないのでは…?

いや、確かにこの目で見た。泣き崩れる姉を見た。急いで帰ってきて、葬式をしている父を見た。親戚の家で、充実した生活をして、こんなわけもわからない思考になっている環境にあるのは、そういう事実があるからだ。

忘れかけている。母を。母がいた事実を。
そう思った時、「あぁ、本当に母は死んだのだ」と感じました。

よく「生きている人間からも、死んだ人の記憶が消え、忘れされる時、人は本当の死を迎えるのだ」というような言葉を聞きます。
それがどういう事なのか、その時にハッキリと実感しました。


この話に綺麗なオチはありません。
ふと思い出して、なんとなく書いただけです。教訓も、何かを伝えたい意図もありません。


ただたまに見る母の夢は、私のそういう「どこかで生きているかも」とか、「ちゃんと一緒に過ごしたかった」とか、「忘れてないよ」という気持ちが、無意識に現れているのかなと、毎年この時期になると考えるのです。





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