批判的社会言語学にstep inする

先行研究を読みあさったり、ターミノロジーをしっかりtake inするために本を読みつつ自分の研究で使えそうなところは引用してそれに対する自分の批判的意見とか自分の研究の観点に合致している点とかをメモメモしていきたい所存。特に記載がない限り引用は以下の通りです。

「正しさ」への問い:批判的社会言語学への試み
―野呂香代子・山下仁(編)(2001)

「正しさ」と言うのは絶対的なものではなく、政治的、経済的、文化的に利害関係が交錯する社会の中で作られるものである。それなのに、人は得てして恣意的に定められた基準を無批判に信じ、「正・誤」、「善・悪」、「美・醜」などの価値観に従って行動している。

野呂・山下(2001)p.3

いや本当にこれをこの一年くらいと言うか、本当は無意識に感じてた気もするんだけど、すごくaware of thisになってきていたというか。社会的に色々な価値が決められているのに、それに操られる私たち、みたいな構図。話し言葉も書き言葉も、結局は社会が何が良くて何が悪いと決めていて、それって「全然〜ない」の例でもそうなんだけど、確かねあれは元々は後ろに否定をとって呼応する副詞ではなかったんだよね、けど途中で否定と呼応しなきゃダメと社会的に規範ができ、そして最近また、(これはいつかnoteで茶化そうと思ってdraftのままのやつなんだけど)すき家のpop(?)でsaying「全然新しい!」なんてのがあったので、こりゃあ人によっては「間違った日本語」なんだろうなと思ったりしたのよね(かくいう私も然り)、けど「全然大丈夫」「全然いいよ」が許容され始めてる(これ出典ないですなんかどっかで聞いた話か私の体感。文献漁ればあると思うけど一旦飛ばす)ということも加味すると、いやほんとに何がこうって決められた不変なものってなくて、やっぱり社会と文化とに形成されてると考えるのがしっくりくるというか。

副題にある「批判的社会言語学」の中の「批判」の対象は、無批判に自分が受容していた固定概念であったり、いわゆる権威によって保障されていた基準・規範であったりする。

野呂・山下(2001) p.3

私もこの「批判」の立場をとって、無批判に受容していた規範によって自分のtextingが影響を受けてるというのをやりたいと思っている。
(これより上部は執筆者一同によるはしがきからの引用で、これより下は第1章野呂からの引用です。最後に参考文献で第1章は書いてあります。多分だけどはしがきって引用する部分じゃないよね)

CDAに共通する基本的な特徴は、談話に対する「批判的な」視点である。一般に「批判」には、対照を厳密に解釈し講評するという意味と、対照を問題化するという意味があるが、CDAは、両者の意味において批判的である。提示される談話の、言語形式から引き出される表面的な意味だけを扱ってそれでよしとするのではなく、談話を構成する多言的なコンテクストに意識を向け、そこに含まれる滞在的な意味をも読み取ろうとする態度が前者の意味において「批判的」であり、表面上は見えない形で談話に埋め込まれた権力性を具体的な社会との関連の中で問題視するという点が後者の意味において「批判的」なのである。

野呂(2001)p18

談話を「社会的実践」とし、「複数の現実を呈示し、社会的プロセスに絶えず影響を与えるものとして機能する」(Fowler1992:89)と見なすのもCDAに共通した捉え方である。「今、ここ」で提示される談話は、時間的空間的な社会のつながりの中に生きる人間の実践的な社会的行為である。

野呂(2001)p.18

またCDAは、型どおりの、あるいは社会に受け入れられやすい談話には、社会の再生産に寄与する「イデオロギー」が巧妙な形で含まれていると捉える。【…】種々のメディアから入ってくる公的談話から日常交わされる談話まで、誰もが手にする日常的な談話の中に目に見えない'自然な'形で埋め込まれた、談話のさまざまなレベルにおいて発言しうる、かつ、人々に直接的間接的影響を与え得る一定集団の価値観や利害などを正当化するような構造を持ったもので、いわば、一定の形や方向性を導き得る発動機付きの試行形態とでもいうことができよう。

野呂(2001)p.18

なんかねここまで見て、一旦自分のやりたいやつが果たして談話なのかはわからないなあとなった。CMCでのfingered speechって談話として扱えるとは思うんだけど、私がやりたいのって最近はどっちかっていうと発信者側に注目した言語形式の批判的分析みたいな(?)感じなので、談話というほど、会話が交差しないかもしれない。まあでもとりあえずこの本を読み切りましょう(実は一年前、学部卒業寸前にもう入れなくなるからとこの本にも手をつけたんだけど難しくて挫折したんだよね、今回はリベンジ!今のところよい)。

このように談話を「歴史」および他者との「力関係」が必然的に内包されたものとして認識すると、談話の中で、また、談話を通して実践される力関係の再生産、葛藤、変化などが研究の射程に入る。批判的にその力関係の不平等と向き合うのがCDAの基本姿勢である。

野呂(2001)p.18

この力関係が、この本の例にあったジェンダー的な力関係(例えば、統語論の話のときに、太郎と花子を登場させて、太郎は花子を殴る・花子は太郎に殴られるの文を作った時に、知らず知らずのうちに殴られるのは女性で、殴るのは男性であるみたいな)だけじゃなくて、社会の力、Social PowerとかSocial Direction(違いはまだ調べてないので割愛)(ってかまだわかってないことに対して割愛って言葉使えるのかしら)も含めるのなら、私もCDAの基本姿勢に乗っかってできる感じがありますね。そのコミュニケーション(ここでいう談話だとして)を通して実践される力関係の再生産というのがまさに、まあイデオロギーの強化的な、そういうところと合致するのかなあ(してほしいなあという個人的な希望含め)という感じでございますね。

1)目標
談話を単に社会的行為と見なすだけでなく、現実社会という歴史の中の「今、ここ」の社会的行為と見るCDAは、談話の中で、あるいは、談話を通して巧みに目に見えない形で発信され受け入れられる支配的イデオロギーや社会的不平等を問題とし、それらに意義を唱える。そして、研究を通して多元文化主義的、民主主義的世界の発展に貢献するという明確な目標をもつ。

野呂(2001)p19

そうそう、この見えない形で受け入れられる支配的イデオロギーをやりたいのよね。まあ私の場合必ずしも意義を唱えるというよりは、それを書き出したいだけというか、まあ私が意義を唱えたらそれもそれで新たな規範作りの加担って感じもするしなんか社会に影響を及ぼすようなことってできればしたくない(研究する意義。。。)んだよね笑(苦笑)

CDAにはどうやらいくつかアプローチがあるらしい。これは他のインタラクションの社会言語学とか、会話分析とかとの比較とかじゃなく、CDA内でいくつかあるアプローチみたい。私のやつに合致しそうなやつだけ引用しておく。まあ元々はWodakを参考にしたやつを野呂氏がしているので、これは孫引きな気もする。うぬぬ。(って思ったら、Kressを引用したstatementだったので結局孫引きです。ごめんなさい)

社会記号論は、上記の批判的言語学の主要メンバーがはじめたアプローチで、言語のみならず、視覚、聴覚情報を含めた談話総体の多重な記号性に注目する。そして、ソシュールの「恣意性」に対し、テクスト生産、解釈過程における表現と内容間の'動機づけられた'関係性を問題にする(kress 1993)。つまり、表現を選択する際、また、選択された表現を解釈する際には生産者と解釈者の意思や社会文化的な歴史が入り込むと捉えるもので、多様なメディアや言語手段を通して表象されるテクストに潜むイデオロギーと取り組む。明確にイデオロギーの現れたテクストより、表面上は穏やかに見えるテクストこそCDAの分析対象にすべきだとする(同:190)。

野呂(2001)p33

でもなんか例を見ると談話をやってる感じはあまりない(いや普通に調べ不足だけれども)ので、違うような気もする。でもなんかスタンスはこれな気もする。わかんないからもう一個。社会文化的変化と談話の変化(Sociocultural Change and Change in Discourse)より。

Faircloughは、特に、社会文化的変化と談話の変化との関係、新たに生まれる談話形態、その結果生じるイデオロギー間の葛藤やイデオロギーの不鮮明さなどの問題に取り組んでいる。【…】Faircloughは、上で述べたように、テクストの抗議な言語学的分析が必要だとする一方、交錯する談話のジャンルやタイプ間の緊張や重なりなどを調べる'間テクスト(intertextual)'分析が特に重要だとする。

野呂(2001)p.36

この間テクストちょっと気になるのでまた調べてみようと思う!!今日はなんかこの一章でもう疲れた!!笑自分、なかなかザコ。。。


野呂香代子(2001)「クリティカル・ディスコース・アナリシス」野呂香代子・山下仁(編)『正しさへの問い:批判的社会言語学の試み』13-49. 東京: 三元社. 


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