ブルシット・ジョブとさぼり

仕事の業務時間中のさぼりを、資本主義、管理社会、その他もろもろへの抵抗として肯定するためにはどうしたらいいだろうか、と最近考えている。今のところ、以下の3つのアイディアがあるので、一つ一つ検証していきたい。

①さぼり=アナキスト柔軟体操であると位置づける。

②さぼりをバートルビー、I would prefer not toの文脈で考える。

③さぼりをブルシット・ジョブからの逃避として捉える。

まず、③さぼりをブルシット・ジョブからの逃避と捉えることについて、書いてみたい。

デヴィット・グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ』には、自らの仕事をブルシットなジョブであるとみなし、その状況に反抗する人々のエピソードがでてくる。グレーバーはブルシット・ジョブについての明快で実用的な定義を述べているので、まずはそれを記しておこう。

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完全に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一貫として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないと感じている。(p.27-28)

上記のような定義に加え、本書にでてくるブルシット・ジョブの従事者は、ある程度高額な賃金を受け取っていることが多い。グレーバーは若者がブルシット・ジョブを続ける1番の理由として学費で背負った借金の返済(p.344)を挙げているが、ブルシット・ジョブの多くは、高学歴かつ高収入な人々によって担われている。

グレーバーによるブルシット・ジョブの観念は、さらに2種類に分けると理解しやすいように思われる。1つがその職種自体がブルシットな場合であり、もう1つは、業務時間内に生まれたやるべきことのない時間を埋めるためだけに産み出される無駄なタスクである。

グレーバーのいう「雇用目的仕事(メイク・ワーク)」には、後者が多く含まれている。グレーバーによると、このような「雇用目的仕事(メイク・ワーク)」が屈辱的なのは、他人がつくったごっこ遊び(メイク・ビリーブ)ゲームに参加しなければならないからだ(p.138)。もしそこに監視者がいるとしたら、「働いている」ことを示すために、意味のない仕事をしなければならない。グレーバーは、自らが学生時代にやった皿洗いのバイトの話を持ち出す。皿を洗い終わって休んでいたら、雇用主に「you’re on my time!」(お前の時間は俺のものなんだぞ!)と怒られ、既に完了している仕事をもう一度やれと命令されたという(p.130-131)。本当にやるべきことだとは思われない、雇用主の権力を表現するためだけのごっこあそびを強要されたのである。

『ブルシット・ジョブ』にはブルシット・ジョブに就くたくさんの人の証言が掲載されているが、驚くのは、監視者がいないとき、彼らがサボりながら驚くほどクリエイティブなことをやっていることだ。フランス語のスキルを上げたり、スペインの歴史を研究したりする例に加え、映画を見たり、本を読んだり、ゲームをしたという証言は何度もでてくる。少なくとも、彼らは業務にはおよそ関係のない、雇い主にとっては生産性のないことに時間を使っているにも関わらず、賃金を得ているのである。だからこそグレーバーは、「なぜかれは、企業に売った自分の時間を盗み返しているとみなせずにいるのだろうか?なぜ、みせかけ(プリテンス)と目的の欠如の元で、かれは苦しんでいるのだろうか?(p.138)」と問う。

本書が与える悲観的な視座は、ブルシット・ジョブの従事者は、業務時間内に余暇ということすらできる(かもしれない)時間を出現させるにも関わらず、他人がつくったごっこ遊び(メイク・ビリーブ)ゲームに参加しなければならない(p.138)という理由で、苦しんでいるのだということだ。この点は、監視者がいてもいなくても変わらない本質なのだという。

グレーバーの視点からブルシット・ジョブからの逃避としてのさぼりに肯定的な意味を見いだすのは、難しそうだ。




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