フランス革命中の非キリスト教化運動について


以下は、私が大学2年生のときに大学の授業の期末レポートとして提出したものである。文章の稚拙さと議論の一貫性のなさが否めないが、記念として載せておきたい。

序論
 このレポートは、「フランス革命中に起こった非キリスト教化運動とはいったいなんだったのか」というリサーチクエスチョンに応答している。このクエスチョンをさらに3つの問いに分割し、以下の1~3章でひとつずつ検討していく。第1章では、まず、独占的な地位を保っていたはずのカトリックがどのようにしてその権力を失っていったのか、1789年から1791年まで革命の中心を担った憲法制定国民議会での議論をもとに明らかにする。第2章では、なぜ非キリスト教化運動が起こったのか、非キリスト教化運動の思想的背景と運動の推進者を明らかにすることで論じる。そして第3章では、非キリスト教化運動とフランス革命がキリスト教史にどのような影響を与えたのか検討する。

1.勢力を失っていくカトリック
 フランスでは1685年にルイ14世がナントの王令を廃止して以来、プロテスタントは非合法になり、カトリックがその独占的な地位を保っていた。フランス革命の最初期、封建制が廃止され十分の一税が廃止されたことや、教会財産が国有化されたことで教会が経済的に弱められた。しかしカトリックは革命推進側において、初期はその影響力を強く持っていた。第一章では、まず1789年から1791年まで革命の中心であった憲法制定国民議会でのフランス人権宣言、国民宗教宣言、聖職者民事基本法についての議論に触れ、カトリックの勢力が弱まっていき、逆に抑圧されていく様子を見ていく。ここで、革命が起こる何世紀も前から、フランスの教会はローマによる過度の干渉を防ぐために「ガリア教会の自由」を標榜し、フランスの司教と国土の管理下に置かれていた[1]。教皇を中心としたローマ・カトリックとフランスのカトリックの間には微妙な距離感があった事を付け加えておきたい。

1.1 フランス人権宣言
 1789年、憲法制定国民議会は「人権宣言」を採択した。ここでは、国民議会の中で未だカトリックの勢力が強力だった事を知ることができる。

第10条 だれも、その意見のため、たとえそれが宗教的な意見であろうと、それを表明することが法律によって制定された公共の秩序を乱しさえしなければ、脅かされるよう
なことがあってはならない。[2]

上記の第10条は思想の自由や表現の自由について述べている。ここでいう「公共の秩序」とはカトリックのことであり、第10条はプロテスタントやユダヤ教を念頭におき、宗教的寛容を示したものだと解釈されている[3]。ただしここでは議会での決議の結果「信仰の自由」という明示的な用語を使うことが回避され、また前案である第六部会案の「既存の礼拝をを妨げないならば、市民は平安を脅かされない」は「公的秩序を乱さないかぎり」に変更された[4]。後者の方が抑圧する口実を見つけやすいと言えるだろう。信仰の自由を認めることに反対するカトリック勢力は、未だ議会の中で強大だった。

1.2 国民宗教宣言
 人権宣言の公布後、国民議会でカトリック勢力が国民宗教宣言動議を提出した。これは
カトリックを国民的宗教として認定しようというものである[5]。しかしこれは不発に終わった。宗教を国家に服従させようとする革命政府の意志はますます強力になっていったが、それに対抗してカトリック教会は自己の歴史的独立性を維持していこうとするようになった[6]。この対立と抵抗の末、カトリック教会は国家による抑圧の対象となっていった。

1.3 聖職者民事法
 前述の通り、フランス・カトリックは「ガリア教会の自由」を掲げていた。憲法制定国民議会は自らを国家主権の継承機関とみなし、聖職者民事法を制定した[7]。当初その目的はあくまで腐敗した教会の改革であったが、最終的に議会はこの法律に忠誠を誓うことを聖職者の義務とし、拒絶したものは免職すると宣告した[8]。議会の勢力が完全に教会勢力を上回ったといえる。議会が発効した人権宣言は思想の自由を認めるものであった。しかし実際には忠誠の制約を拒否したものは反革命活動の嫌疑をかけられ、すぐに迫害の対象となった[9]。恐怖政治がはじまると、忠誠を誓う誓わないに関わらず、カトリックもプロテスタントも区別なく、ギロチンへ送られるようになった。[10]

1.4 なぜカトリックは勢力を失っていったのか
 当初革命推進派内部においてカトリックは強い勢力であった。しかし次第に議会はカトリックを抑圧する立場をとるようになっていった。理由を2つ挙げる。まず、伝統的な権威と結びついていたカトリックが反感を買ったことや、啓蒙哲学による宗教批判の影響である。これについては第二章で詳しく述べる。次に、プロテスタントやユダヤ教徒が流入したことで、カトリックの独占的な地位が揺らいだことが挙げられる。議会もプロテスタントの議員を擁しており、ラボー・サン=テチエンヌらがプロテスタントの信仰の自由を求めて活躍した。フランス革命が始まる1789年以前、フランス社会は新参者に厳しく、新参者の官職の保有を法的に禁じるなどしていたが、フランス革命の社会的混乱によってこういった制約が消滅した[11]。プロテスタントやユダヤ人がこの機会を得てフランス国内に流入することになった。このようにして、カトリックは急速にその力を失っていったのである。

2.非キリスト教化運動の思想的背景と運動の推進者
 フランス革命の思想的背景が啓蒙哲学の影響を受けていることは間違いない。しかし、だから非理性的な盲信である宗教が弾圧された、という単純な論理では、フランス革命中の非キリスト教化運動を説明することができない。運動が最も盛んであった恐怖政治時代には、理性の崇拝や最高存在の崇拝といった、キリスト教に代替する新たな宗教のようなものが産み出されていたからである。政府は大規模な祭典を開き、<自由>の女神の像が建てられ、人々は各地でそれを執り行った。革命の指導者たちは啓蒙哲学という思想的背景や自身の権力の保持のためにキリスト教弾圧やキリスト教に代わる新たな祭典を行ったが、この意図は民衆に広がるまでにかなり歪曲されていく。

2.1 過去の伝統からの断絶と啓蒙思想
 フランス革命推進派は、家父長モデルとキリスト教という二つの伝統的な権威からの根本的な断絶を図った。まず、保守的な立場が君主制、伝統、および父の権威をフランク族の歴史モデルと結びつけたのに対し、急進派は国民的過去との断絶を目指し、新しさを強調した[12]。これは同時に家父長的なモデルを拒否することに繋がった[13]。1793年に行われたルイ16世の処刑は象徴的な父の否定の最たる例であるといえよう。また、キリスト教は啓蒙哲学によって批判され、同時に伝統的な権威の象徴であるという点においても攻撃された。革命推進派は聖書を必要とせず、人間の理性と自然権に根拠づけられた新しい社会契約を形作ろうとしたのである[14]。ただし一方で、フランスの大多数の市民は熱烈なカトリックであったため、恐怖政治において非キリスト教運動を主導したジャコバン派指導者たちは、彼らが離反しないよう注意を払っていた[15]。

2.2 革命において生まれた新しい“宗教”と民衆のシンボルの結びつき
 1793にはじまったジャコバン革命政府の時代には、恐怖政治が行われ、非キリスト教運動が盛んになった。もっとも急進的な議員はキリスト教的なものをすべて排除しようとした。グレゴリウス歴を廃止し、革命歴を取り入れたのはこの顕著な例である[16]。革命の指導者たちは、キリスト教に変わる新しい倫理の軸となるものを産み出した。エベールの理性の祭典、ロベスピエールの最高存在の祭典が有名である。ゴンザレスは「理性宗教」の創始は、フランス革命への抑圧勢力であるローマ教皇を弱体化するという政治的意図もあったと指摘している[17]。
 これらの祭典で用いられたシンボルは、もともと革命の最初期に民衆のあいだで広まっていたものであった。議会はモチーフを公的な形でとりあげ、花形帽章を被ることや祭壇でフランス革命へ忠誠の誓いをすることを義務とした[18]。ただし、これはシンボルの使用を公的なものに規制することで熱狂的になった民衆が過度にヒートアップすることを抑制するという狙いもあった[19]。最もよく知られたモチーフは<自由>の女神(マリアンヌ)であり、革命によって樹立した共和国のイメージと固く結びついた[20]。

2.2.1 理性の崇拝
 1793年に政府は「理性の祭典」を執り行った。カトリックに対する攻撃であることをより明白にするため、ノートルダム大聖堂で式典が行われた[21]。<自由>の女神は神格化されてはならず、普通の女性のように見える必要があった。しかし民衆は地方のカーニヴァルの様式にこれを取り込み、村や近隣の一番の美人を<自由>の女神として選び、女王として祭り上げた[22]。啓蒙哲学に基づいた新しい祭典は、民衆が伝統的なものの中にこれを取り込んだことによって意味を転覆されてしまったのである。地方における理性の祭典は、非キリスト教化運動の絶頂点であったとされる[23]。理性崇拝の祭事の典礼として行われた反キリスト教的な「仮装行列」は徐々にヒートアップしていき、最終的に聖職者の火刑へと行きついた[24]。

2.2.2 最高存在の崇拝
 その後ジャコバン派の中で独裁を確立したロベス・ピエールは、非キリスト教化運に反対していた[25]。革命の祭典は無神論的でアナーキーなものであってはならず、カーニヴァルのような前近代的民俗の再生ではなく、共和主義的な公民を創生するための公教育の一環でなくてはならなかった[26]。ロベスピエールは、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と語ったといわれており、キリスト教の神に代わる「最高存在」を崇拝する祭典を執り行った[27]。

2.3 非キリスト教化運動の広がり
 二章二節で見たように、中央政府の革命指導者たちが啓蒙哲学に基づいて行った非キリスト教化運動は、地方の民衆にまで降りてくるとしばしばその意図から大きくずれたり、過激な行動を引き起こしたりした。非キリスト教化運動は、まず、中央から地方へ派遣された議員と革命軍によって地方へともたらされた。彼らは僧侶を無理やり結婚させることで世俗化させようとしたり、教会を閉鎖するなどした[28]。その後市町村自治体にその主体を移し、そのあと民衆協会によって引き継がれていったのである[29]。ただし民衆が強く反対した例も見受けられる[30]。

3. キリスト教史におけるフランス革命の位置づけ
 フランス革命において非キリスト教化運動が最も苛烈であったのは恐怖政治の間であったが、ロベス・ピエールらが処刑され恐怖政治が終わりを告げても反キリスト教的な政策はナポレオンがローマ・カトリック教会と和解するまで続いた。
 革命を経て、フランスのキリスト教世界にもたらされた大きな変化は2つある。まず、「ガリア教会の自由」を標榜していたフランス・カトリックは、ナポレオンが1801年に教皇とコンコルダートを結んだことで、教皇の権威のもとに下った[31]。その後ナポレオンは教皇による戴冠を挙行し、「皇帝」の称号を得た。次に、啓蒙哲学がキリスト教思想の中に取り込まれた。特にマイノリティであったプロテスタントにおいてこの動きは顕著であった。カルヴァンたちが全能の神の前にたつ人間の無力を強調し神の前での完全な受動性を語ったのに対し、例えば憲法制定国民議会の議員であったプロテスタントのラボー・サン=テチエンヌは、人間の良心の自由や万能性に基づいて信教の自由を主張した[32]。近代的な人間観と伝統的な宗教観が結びついていったと言える。

結論
 フランス革命中、カトリックは議会の政策により経済力を失い、抑圧されたことで勢力が弱体化していった。革命の推進派は過去の伝統との断絶と啓蒙思想というレトリックによって非キリスト教化運動を始め、聖書によらない新しい社会契約の祭典を行うようになる。しかし、その意図は民衆レベルでは歪曲され、熱狂を生み、過激化していった。しかしこうした弾圧は歴史的には一次的なものであり、革命の終結とナポレオンとローマ・カトリックの融和と共に終わりを告げた。一方、キリスト教思想が啓蒙哲学を取り入れようとする動きがあった。



参考文献
石井三記「一七八九年フランス人権宣言試訳」『名古屋大學法政論集』、2014年。
ヴォヴェル、ミシェル。『フランス革命と教会』、谷川稔、田中正人、天野知恵子、平野千果
子訳、人文書院、1992年。
木崎喜代治。『信仰の運命』、岩波書店、1997年。
ゴンザレス、フスト。『キリスト教史 下巻』、新教出版、2003年。
谷川稔。「第二章フランス革命とナポレオン帝政 3.文化と習俗の革命」『近代フランスの歴
史-国民国家形成の彼方に-』谷川稔、渡辺和行編著、ミネルヴァ書房、2006年。フス
ハント、リンス。『フランス革命の政治文化』、平凡社、1989年。
ロジェ、L、J、et al。『キリスト教史 第 7 巻 啓蒙と革命の時代』、上智大学中世思想研究所編訳/監
修、講談社、1991 年。



[1] フスト・ゴンザレス『キリスト教史 下巻』、新教出版、2003年、p.257-61。
[2] 石井三記「一七八九年フランス人権宣言試訳」『名古屋大學法政論集』、2014年、p.37-80。
[3] 木崎喜代治『信仰の運命』、岩波書店、1997年、p.239-282。
[4] 木崎、p.256-257。
[5] 木崎、p.256。
[6] 木崎、p.277。
[7] ゴンザレス、p.258。
[8] ゴンザレス、p.259。
[9] ゴンザレス、p.259。
[10] L・J・ロジェ他著『キリスト教史 第 7 巻 啓蒙と革命の時代』、上智大学中世思想研究所編訳/監修、講談社、1991 年、p.274。
[11] リンス・ハント『フランス革命の政治文化』、平凡社、1989年、p.220。
[12] ハント、p.53。
[13] ハント、p.54。
[14] ハント、p.51-52。
[15] ハント、p.131。
[16] ハント、p.130。
[17] ゴンザレス、P.283 。
[18] ハント、p.87。
[19]ハント、p.86。
[20] ハント、p.89。
[21] ハント、p.89-90。
[22] ハント、p.92。
[23] ハント、p.331。
[24] ミシェル・ヴォヴェル『フランス革命と教会』、谷川稔、田中正人、天野知恵子、平野千果子訳、人文書院、1992年、P.180。
[25] 谷川稔「第二章フランス革命とナポレオン帝政 3.文化と習俗の革命」『近代フランスの歴史-国民国家形成の彼方に-』谷川稔、渡辺和行編著、ミネルヴァ書房、2006年。
[26] 同上。
[27] 同上。
[28] ヴォヴェル、p.140、p.220。
[29] ヴォヴェル、p.236。
[30] ヴォヴェル、p.237。
[31] ゴンザレス、p.260。
[32] 木崎、p.281。

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