バートルビ―的恋愛

本稿は、メルヴィルの小説『書記バートルビー』の中で描かれる、バートルビーと、バートルビーをまなざし、小説の語り手となる雇い主との関係を考察することで、私自身の恋愛を分析することを目的とする。

『書記バートルビー』は、『白鯨』の作者メルヴィルによる中編であり、ドゥルーズやジョルジョ・アガンベン、ネグリ=ハートらによる論考が有名である。私がこの作品を知ったのはスラヴォイ・ジジェクを通してであり、ジジェクは度々、この小説でバートルビーが発する最も印象的なセリフである“I would prefer not to(やらずにすめばありがたいのですが)”が大きくプリントされたTシャツを着てインタビューを受けている。

https://www.youtube.com/watch?v=UlIlGCgNBRw

『書記バートルビー』は、バートルビーの雇い主である弁護士の一人称視点で描かれた物語である。ウォール街にオフィスを構える雇い主は、書類を書き写すという仕事をさせるために3人の男を雇っており、最近仕事が増えて来たので、4人目の書生を雇うことを決める。こうして4人目の被雇用者として現れたのがバートルビーである。
バートルビーは最初、驚くべきスピードで黙々と業務をこなす。

それはまるで、何かを筆写したいという長年の飢えを充たすべく、私の書類をむさぼり食っているかのようだった。(p.105-106)

バートルビーが“I would prefer not to”を最初に口にするのは、事務所で働き始めて3日目のことで、雇用主が、筆写した書類の点検をバートルビーに命じた時である。バートルビ―はその後も点検の仕事や郵便を出すといった仕事を“I would prefer not to”という言葉で断り続ける。そして、「もう書きません」と言って、筆写の仕事さえもやめてしまう。バートルビ―が何もせずに事務所に居座るので、雇用主はついに事務所を他の建物へ移転する。それでもバートルビ―は事務所があった建物で過ごし続け、次の入居者に通報されて刑務所へ入る。元雇用主がバートルビ―を刑務所に見舞いにいくと、バートルビ―は「食事をしないほうがいいのです」といい、そのまま亡くなる。

I would prefer not toは、2つの視点から解釈が可能である。1つは、バートルビーの態度のあいまいさに注目するというものであり、バートルビーは何も欲しておらず(欲望が欠如しており)、ただ「それをしない方がいい」のだという解釈である。2つ目は、バートルビーの態度が結局「仕事をやらない」という結果を生んでいるということに注目するものであり、バートルビーは「やりたくない」という意志を丁寧に示しているという解釈である。

①バートルビーのあいまいさ

1つ目の視点、バートルビ―のあいまいさに重きを置いているのは、アガンベンである。

筆写することを欲していない、ということでも、事務所を離れないことを欲している、ということでもない―単に彼は、それをしないほうがいいのである。(p.41-42)

私は、アガンベンによるバートルビーの考察が、自分の(今回の)恋愛における自分の心情に重なると感じている。私は現在、1人の女性との恋愛を遂行(※1)している。最近、私は彼女の愛情を欲しているわけではない、ということが、明らかになってきた。だが、彼女を拒絶したいわけでもない。しかし彼女との関係に対する倦怠感と、彼女といることに飽きてしまったという感覚に悩んでいる。彼女は私に会いたがっている。自分に正直に書き記すならば、私が彼女に会うのは、義務感によってである。私は「会わずにすめばありがたいのですが」と思っている。私は彼女に対して何も望んでいない。彼女は私の欲望の対象ではない。しかし、「会わずにすめばありがたいのですが」と伝えることを躊躇している。

なぜ「会わずにすめばありがたいのですが」と伝えるのを躊躇しているのかというと、彼女が私を誤まって解釈するのだろうということを恐れているからだ。彼女は、私の欲望の欠如に、なにか意味づけをするだろう。すなわち、「何かをしたい」という欲望、もしくは「何かをしたくない」という欲望であると解釈するだろう。私には彼女に対する欲望それ自体がかけているのに、欲望そのものの欠如を、「何を欲望しているのか」という謎にすり替えてしまう。その謎を埋めるべくして彼女の中に思いうかぶ暫定的な答えと期待を、私は半自動的に裏切り、彼女を傷つける。そのようになってしまうことが恐ろしいし、既にそうなっているのかもしれない。
では、「あなたを欲望していない」ということが、そのまま伝わってしまったらどうだろう。そちらの方が残酷な気がする。

(ただし、この文章を今読んでいるあなたは、私の無意識の欲望を読み取っているかもしれない。すなわち、「あなたは彼女に○○を望んでいるんじゃないの」と思うかもしれない。自分の欲望から疎外された主体たる私の自己分析より、あなたが私の文章を分析するほうが、もしかしたら正しい(※2)のかもしれない。)
(アガンベンやジジェクは、バートルビーのこの曖昧な態度が、肯定(何かをなす)/否定(何かをなさない)の二項ではない、その間の領域を割り開くのだとする。そのようなことはあり得るだろうか、二項のどちらかに当てはめられて解釈が生まれるだけではないのか。)

言葉は言葉通りには受け取られず、欲望の発露、もしくは欲望を産み出すべき欠如/埋められることを望む欠如として解釈されてしまう。欲望が欠如しているとわざわざ口に出すのは、そこに何かしらの意図、つまりは欲望があるからだ、と解釈される。バートルビ―の雇い主は、欲望が欠如した主体たるバートルビ―を前に、バートルビ―が筆写をしないのは目の調子が良くないからだろう、という意味付けを勝手に行うし、「バートルビ―のためになって粗野な迫害から彼を護ってやろうという自分自身の欲望と義務感」を持ってバートルビ―を救おうとする。元雇用主である彼がにどんな職業につきたいか尋ね、服飾店の事務員を勧めたとき、バートルビ―は「事務員にはなりたくありません。ですが、私はとくに望みがあるわけではありません。(p.149)」と応えるのだが、雇用主はバートルビ―には欲望がないという前提を受け入れることができず、バートルビ―から“I would prefer not to”の回答を引き出す質問をし続ける。

②バートルビーの拒絶

バートルビーの態度は、仕事を拒絶する態度として、雇い主に解釈される。「やらないことを好む」ということは、結局は「やりたくない」と解釈されうるものなのである。

バートルビーが最初にI would prefer not toを発したのは、書き写しの確認を命じられたときだった。バートルビーはI would prefer not toを繰り返したのち、ついに、最初は難なくやっていた写生でさえも、やらなくなってしまう。ここでは、2通りの解釈が可能である。1つ目は、バートルビーの拒絶、つまり「やりたくない」という意志が初めて発動されたのは、書き写しの確認作業に対してである、という解釈である。写生をすることはバートルビーの意志に反したことではないが、確認作業はやりたくなかった。やりたくない様々な仕事を押し付けられているうち、最初はやってもいい、もしくはやりたいと思っていた写生をやりたくなくなってしまった、と考えられる。もう一つは、バートルビーは最初から写生をやりたくなかった、とする解釈である。私は1つ目の解釈を支持するが、どちらにせよ、バートルビーのI would prefer not toは遡及的にバートルビーの行動をせき止め、バートルビーはついには生存することすらしなくなってしまう。

私自身がやりたくてやっていたことが、他人が私にやってほしいことと重なったとき、やりたくてやっていたこともやりたくなくなることがある。他人の欲望のゲームへ巻き込まれるのがいやになるのだ。これはおそらく、宿題をしようとしていた時に「宿題をしなさい」と言われたらやりたくなくなってしまう、という事象への、一つの解釈である。ついには親が自分に望むことは何もやりたくなくなる。

私は、上記のような視点から自分の恋愛を分析することもできる。私にとっての「やりたくない」のきっかけは、ボディタッチだった。最初、彼女からのボディタッチを違和感をもちつつ受け入れていた私は、次第に、彼女を性的に欲望しない状態である自分に気づく。その時、これ以上彼女に触られるのを望まなくなった。
そして、彼女のボディタッチに対する「セックスせずにすめばありがたいのですが」が起点となり、「会わずにすめばありがたいのですが」まで遡及してしまった。この分析も、自分の中ではかなり説得力がある。


おそらく、あいまいなバートルビー、拒絶するバートルビーは、私のなかで両立する論理である。だが私は彼女に対して、あいまいな態度も、拒絶する態度も取りたくない。「会いたい」という状態になることを望む。この自己分析が今後どう生きるのかは分からないが、私は彼女に対してできるだけ誠実でありたいと思う。

※1 「遂行」という言葉が私の心情にマッチしているかどうかの判断ができかねているが、暫定的に「私は恋愛を遂行している」とする。

※2 正しい分析などあるだろうか。あるとしたら、分析で探すべき「本当の自分」のような概念を前提とすると思う。正しい分析も本当の自分も存在するかわからないが、暫定的に「正しい」という言葉を使ってみる。

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