アナキスト柔軟体操とさぼり

仕事の業務時間中のさぼりを、資本主義、管理社会、その他もろもろへの抵抗として肯定するためにはどうしたらいいだろうか。今のところ、以下の3つのアイディアがあり、今回は①について考えてみた。

①さぼり=アナキスト柔軟体操であると位置づける。

②さぼりをバートルビー、I would prefer not toの文脈で考える。

③さぼりをブルシット・ジョブからの逃避として捉える。


アナキストであり政治学・人類学者でもあるジェームズ・C.スコットが彼の著書『実践 日々のアナキズム』で提唱するのは、アナキスト柔軟体操である。アナキスト柔軟体操とは、日頃から非合理的だと思われる軽いルールを破っておくことで、来るべき日に、正義と合理性のために重要な法律を破ることに備えるというものだ。スコットが例示するのは信号無視である。ただし、どんな時でも信号を破ることを推奨している訳ではない。例えばスコットは、信号を無視するときは、周りに子供がいないかを確かめてからわたっているらしい。子供がスコットを見本に危ない目にあうのを防ぐためである。スコットは、自らが信号無視をした経験を、以下のように振り返る。

その目的は、自己利益のために、まして数分を節約するという小さな理由のために、違法行為を促すことではなかった。むしろ私の目的は、自動的な服従という根深く染み込んだ習慣が、よくよく考えてみれば、ほとんどすべての人にばかげたことだと分かる状況をいかにもたらしうるのかを例証することだった。(p.26)

過去300年における重要な解放運動は、すべて警察権力をはじめとする法的秩序へ対決するものとして始まった。こうした解放運動の担い手たちは法律や慣習を率先して破ったが、無秩序ではなく、より公正な法的秩序を求めていたのである。

スコットは、いくつもの例によって、日常的抵抗(everyday forms of resistance)を描き出した。日常的抵抗の特徴は、匿名性、沈黙、共謀にある。例えば密猟者は、薪と獲物に関する権利を貴族と争うことなく、自らの行動と動機をうまく隠し続ける。また、友人や近隣の人が彼をつきだしたりするはずがない、という期待にもとづいて密猟を行う。こうした共謀は、実際の共議なしに行われる。また、スコットが何度も例示するのは軍隊の例であり、アメリカ南北戦争、ナポレオンの侵略戦争など、歴史的に多くの兵士が脱走を繰り返した。こうした行動は公然と権力に相対するものではなかったが、徴兵を課した権力を揺らがせた。

リスクの低い抵抗活動が上手くいかなくなったとき、大きな暴動、謀反、反乱といった公然の戦いが生じた。こうした権力への競り合いは突如として歴史に生じるように見えるが、その前に、日常的抵抗が生じていたことをスコットは示す。日常的抵抗は、大きな抵抗運動に通じるのである。

また、スコットは、暗黙の協調や匿名の違法行為が集合行為に伴う不便さや危険を回避しつつ、同様の目的を達成する可能性についても示唆している。小さな実践が慣習となり、法的権利へ進展しうるという例を示すのである。

スコットが描き出すのは、権威主義的支配のもとで、規律権力によって従属化=主体化される私たち、という世界観であるように思われる。実際、学校、工場労働、軍隊など、フーコーが『監獄の誕生』で描いた規律訓練の場への言及が多い。

私が疑問に思ったのは、既に規律権力は弱体化して久しいのではないか、ということである。歴史的に日常的抵抗が抵抗の力を持ってきたことは、必ずしも今もそれが有効であることを意味しないのではないだろうか。特に、抵抗の相手である権力の形態が変わってしまったとしたら。管理社会、後期資本主義社会でも、このような抵抗は有効だろうか?

抵抗運動としてのサボタージュは、物資的生産においては、生産力を下げるという形で雇い主に直接打撃を与えることができた。しかし、今日の非物質的生産において、ひと時労働から意識が離れることは、どのようなの意味を持ち得るだろう。さぼり=アナキスト柔軟体操として位置づけることは可能だと考えるが、その有効性について、スコットの理論が保証してくれているようには思えなかった。


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